耳元で囁いて


作:マメ子


「マヤ、いるのか?」
合い鍵を使って入った部屋には、明かりが点いていた。
恋人に無用の誤解をされる前にと、仕事もそこそこに駆けつけた真澄だった。

ダイニングに入るが、探している人の姿はない。
開け放たれた寝室のドアから、中を覗く。
しかし、そこにもいない。
何度かけてもつながらない携帯に、それでも真澄はもう1度、電話をかけてみた。
流れてきた留守番電話の機械音声に、真澄はため息を1つだけ残して、切った。


やはり探しに出た方がいいのか、しかし入れ違いになるのではと、真澄が何度目かの腰を上げた時、玄関ドアの向こうから何やら楽しげな歌声が聞こえ始め、その声はやがて、真澄のいる部屋の前で止まった。
当然、それがマヤの声だと、真澄はすぐに気付いたのだが。
内側から、施錠を外す。
青木麗に半ば背負われるようにして立つマヤが、いた。

てっきり誰もいないと思っていたマヤの部屋から真澄が出てきた時、麗は、半ば呆れ、半ば怒りながら、真澄に引き渡した。
「ツケときますんで」
という一言と共に。
君のツケは怖いんだよ、青木君。

玄関先で真澄と麗が短い会話を交わしている間に眠ってしまったマヤを抱き上げて、寝室に向かう。
その途中、マヤが目を開けた。
「お久しぶりです。あれ、どこに行くんですか?」

真澄は足を止めずに、進む。
「今日はもう寝ろ。話は明日だ」

マヤは冷静な真澄の顔をじっと眺めた。
「・・・寝られると思ってるんですか?」

なんだか様子がおかしい。
真澄の足が止まる。

「どうした?」
「どうした、ですか?」

マヤの目が据わっている、と真澄は気付いた。
「ここに座って」
「うん???」
「だから、座って、ってば!」
「いや、座れって・・・。どこに?」
「ここに!」
見下ろさなくても、今の自分の立ち位置は分かっている。

真澄は引き返し、足をバタつかせ始めたマヤを、ソファに座らせる。
「ここでいいか?」
「速水さんも座ってください」
とりあえず大人しく従おうとした真澄に、マヤは言った。
「その前に、お酒ください」

マヤは絡み上戸だった、と真澄は思い出した。
しかし、彼女の荒れている理由に心当たりがなくもない真澄は、大人しく様子を見ることにする。

バレないように水で薄めたビールを渡す。
「速水さん、ちょっと座ってくださいよ」
マヤの隣りに腰を下ろそうとした真澄を、マヤは見とがめた。
「速水さんは、こっちです」
指さした先は、マヤの向かいとはいえ、床の上。

やはり見たのか。
真澄は肩を落とした。


「大体ですね、速水さんは無防備すぎます。そんなだから、こーやって写真撮られたりするんですよ。
大都芸能の社長だってこと、ちゃんと自覚するべきです」
マヤが真澄に向かって広げた雑誌には、見るからにガセっぽい、真澄と某女性との密会をほのめかす記事が載っていた。
その弁明のために、今夜、マヤの部屋を訪れた真澄だった。

どうして雑誌まで持ってるんだ。
真澄はため息をついた。
しかもマヤの小言文句は、つい1週間ほど前に、マヤが同様にスクープ写真を撮られた際に、真澄がマヤに言った言葉殆どそのままである。

仕返しか?
マヤの前に正座しながら、真澄は思った。

「分かってると思うが、ガセだぞ」

マヤの目が、吊り上った。
「あたしのも、ガセでしたけどね。それでもいっぱい叱られました。
所属事務所の偉い社長さんに」

マヤらしくない嫌味に、真澄は言葉に詰まる。
返す言葉がない。

「ともかく」
真澄は気を取り直す。
「分かった。全面的に君の言い分を認めよう。悪かった」

「悪かったぁ?」

おい、いつの間に2本目を飲んでるんだ!
マヤの手に握られた新しいビール缶を見て、真澄は瞠目した。

「速水さん、座ってください」
「いや、もう座ってるんだが」
仕方がないので、座り直してみた。

「とにかくですね」
マヤは、テーブルをバンバン、と叩いた。

「以後、気を付けるように」
キラーンと睨まれて、真澄はこみ上がる笑いを殺しつつ、「申し訳なかった」と詫びた。
このことを明日の朝まで、マヤは覚えているだろうか、と思いながら。

しかし、先週マヤを叱ったばかりの今日の自分の記事とは、最悪のタイミングだった。
あんなに怒るのではなかった、と少々の後悔をしている前で、マヤが立ち上がった。

「もう寝る」

フラフラと歩く姿が危なっかしく、寝室まで付き添う。

もぞもぞと服のままベッドに潜り込んだマヤの、肩まで掛け布団を上げてやる。
閉じていたマヤの目が、再びパチリと開けられた。

「速水さん、そこで何してるんですか?」
彼女の枕元に腰掛けていた真澄は、シーツに散ったマヤの髪を撫でた。
「君が寝たら、帰るから」
そういえば、最近、仕事以外で会ったのはいつだったかと、思い出そうとして頭の中でカレンダーをめくる。

「んむぅぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
妙なうなり声が、マヤの口から響いた。

「なんでここで寝ないの?」
真澄は、意味が飲み込めずに聞き返す。
「どういうことだ?」
「だから、速水さんは、今日はどうしてこのベッドで寝ないんですか、って聞いてるんですよ」

「今日は、って・・・」
と言われたところで、今まで1度たりと、真澄の前に開かれたことのない鉄より重い扉、天より高い壁だった。
「そうだな、どうしてかな。素面の時、君自身に聞いてみてくれ」
かなりヤケクソで答えた。
俺が聞きたいんだよ、それは。
ちゃんと大人扱いしろ、と日ごろ訴えるくらいなら、大人扱いさせてくれ。

つい先程まで真澄を睨むようにしていたマヤの目に、剣呑さが増す。
「なんで? 一緒に入りたくないんですか?」
マヤの目が据わる。

真澄はすぐに返事はせずに、マヤを見つめた。
もちろん、入りたい。
しかし、酩酊している時に、これはさすがにまずいだろ。
それとも、まさか、単なる添い寝?
寝オチで、これまで何度も肩すかしをくわされてきた真澄は、疑わしげな視線を送る。

「服はちゃんと脱いでくださいよ。も〜、早く!」
次第に大きくなるマヤの声に、「わかった」と、人差し指を引っかけてネクタイを緩める。

「なんで、あたしをじっと見てるんですか?」
ほんのりと潤んだ眼差しが自分を見つめてくるのに、なぜか妙に居心地の悪さを感じて真澄は、視線をマヤの目からほんの5センチばかり横にズラした。
彼女の酒癖の悪さは十分承知している。
呆れるというよりむしろ、何につけ楽しませてくれると、そう思う余裕は残っていると思っていた。
こうやって時々、無意識にこちらの自制心を試すような真似をしてくるのも、慣れたつもりでいる。
「いや、可愛いなと思って」
いつもならば、甘い言葉には恥ずかしがって噴火しそうになる彼女が、今夜は、真澄にトロンとした眼差しを向けた。

そして、
「いい加減にしないと、怒りますよ!」
褒めたのに、叱られた。

しょうがないと、シャツのボタンを1つ2つ外す。
マヤが嬉しそうにニコニコしながら、掛布団を少し持ち上げて真澄の入ってくるのを待っている。
「いや、だから、まずいだろう、これは」
大人扱いさせてくれ、と思ったことを半ば後悔する。
いや、あるいは、これは千載一遇のチャンスか。
いや、しかし。いや、しかし!
「まだですか?」
ニコリ、とベッドの中からマヤに笑みを送られて真澄は、なるようになってしまえと、彼女の隣に身を滑り込ませた。
「あのね」
マヤの腕が、真澄のシャツをつかんだ。
「どうした?」
説教の続きだろうかと、真澄は耳を澄ませた。
その耳元に、マヤが唇を寄せる。
そして、消え入りそうな声で囁いた。



「えっ、どうして速水さんがいるのっ!?」
真っ赤になって布団にもぐり込んだマヤに、
「いや、まったくだ。俺も、君が起きたら聞いてみようと思ってたんだがな」
真澄はベッド脇に立って彼女を見下ろし、冷静に答えた。

「速水さんのエッチ! 出てってください!」
真っ赤になって掛布団を被ったマヤを見て、真澄は言ってやりたかった。
どこを隠したいんだ、服を着てるじゃないか。
「出てってー!」
飛んできた枕をキャッチして、「早く顔を洗ってこい」と言い残して、リビングへ戻る。

頭を抱えながら、「何も思い出せません」と青い顔をしたマヤがリビングに入ってきたのは、寝室から聞こえてくる唸り声を10分ほど真澄が聞いた後のことだった。
テーブルについた彼女の前に淹れたてのコーヒーをブラックで出してやると、マヤはそれを大人しく、ちびちびをすすり始めた。



「大体、速水さんは、誰にでもいい顔をしすぎです。
だから、こんな写真を撮られたりするんです!」
そして真澄はまた、説教をされた。

「いつも言いますけど、大体、速水さんはですね」
トーストにバターを勢いよく塗りながら、次々と彼女の口からポンポン飛び出す自分への苦情を、真澄は笑って1つ1つに頷きながら、昨日、寝付く寸前に耳元でささやいたマヤの言葉を思い出す。
『本当はね、最近ちっとも会えなくて、寂しかったんです。それとね、』
そして彼女は、落ちるように眠りについた。
元々わがままの言えない彼女の性格を分かっていて、しばらく会う機会を持てないでいたことを、真澄は後悔した。
見当違いと知りつつ、心の中で愚痴ってみる。
君はもっと、わがままを言うべきだ。
どれほどだって、聞いてやれるのに。
君に甘えてもらえれば、俺が嬉しいんだ。

「どーして笑ってるんですか!」
口いっぱいにトーストした食パンを頬張りながら、もごもご、とマヤが不満声を上げた。
「いや、何もない」
「何もないってことはないでしょぉっ!? あたし、怒ってるのに!」
「ほら、こぼしてるぞ」
「ぅむむむ・・・」

マヤはコーヒーでパンを流し込むようにして飲み下し、パンくずを口の回りに盛大につけながら、怒ってるんですよ、と主張した。
「今度やったら、大っ嫌いになります」
「お、おい! どうしてそうなる!?」
「反省の色がないからです」
「この仕事をしていたら、あの程度のゴシップ記事は、」
「問答無用です!」

君自身、他の男性と雑誌に載ったではないか。
俺は君が100回、他の男性と噂になったところで、1ミリ・・・いや、1ナノ・・・いやいや、1ピコほども嫌いにはなりもしないものを、こちらの落ち度にはたった2度目で嫌いになるというのは、いかがなものか。
ここはひとつ、平等にいこうじゃないか?
という言葉は、脳裏を駆け巡りながらも、真澄の口を出ることはなかった。

彼女以外に生きる目的など持たない自分。
もし大嫌い、などと言われた日には、きっと心臓が凍って壊死するに違いない。

そんな自分がどう頭をひねったところで、出てくる言葉はただ1つ。
「2度としない」

マヤが、嬉しそうに笑った。
「よろしい!」

勿論彼女は、昨夜のことは覚えてなどいやしないだろう。
”仕事を下さい”と言えるのに、”寂しい”と当然の主張にも遠慮してしまうマヤ。
そして、“それとね”と続けた更に小さな呟きが、真澄の耳に今も残る。

「あ〜、すっきりしたら、お腹がすいちゃった」
「たった今、トーストを2枚食べたばかりだと思ったが?」
「速水さんの目の錯覚です」
「スープも飲んでいたようだが?」
「いいでしょ! だって、自分で作るより美味しいんだもん! 速水さんのケチ!」
マヤが、2杯目のスープの入ったカップを持ち上げた。
ゆらりと湯気が立ち上るのを見るともなしに見て、真澄は、言葉を告げる。

「一緒に暮らそう」

マヤの目が、点になった。
彼女の指に引っかかっているだけのマグカップを、真澄は上から取り上げる。
そうしないと、落としてしまうだろうから。

「えっ、どうして!? だってだって、速水さん、あたしの仕事が落ち着いてからの方がいいって言ってたし!
それに、新しい仕事がもうすぐあるし。もう少し時期を見よう、って言ったの、速水さんなのに」

「そうだったな。だが、君がいないと寂しい」
「だ、だって、だって、一緒にいたら絶対、いっぱいケンカしちゃいますよ!」

慌てふためくマヤの口元から、真澄はパンくずを指で払ってやる。
「いいよ、俺が謝るから」

ピタリ、とマヤの言葉が途切れた。
驚いていたような顔が、わずかに歪む。

「い、っしょにいていい?」

「いてくれないと困る」

「どうして?」
「全部の理由を聞いていたら、来年までかかるぞ」
「へっ!? じゃあ、トップ10でいいです」
「同票1位が500ほどあるから、来月までかかるな」
「て・・・手短に」
「しょうがないな、だったら、明日の朝までだ」
「・・・・・・あたしのこと、からかってるんですか?」
「まさか。君をからかったりするもんか。全部、本当のことだよ」

マヤの口が、あんぐりと大きく開けられるのを見て、彼女の手からカップを外しておいてよかった、と真澄は思った。
何かを一生懸命に考えているらしい彼女の、返事はゆっくりでいいさと、真澄は鷹揚に構える。
キュッと下唇を噛みしめたマヤが、テーブルに突っ伏した。
じっとそのまま動かないマヤの丸めた背中が、わずかに震えている、真澄にはそんな気がした。
しばらくすると、ズズッと、鼻をすする音が聞こえてきた。
「本当は」
小さな震える声。

「本当は、寂しかったの」
それきり、また黙ってしまった。

「俺もだよ」
真澄はそう返事して、マヤの前に、熱いコーヒーを差し出す。
隣に、温めたミルクを並べ、更にその隣に、ティッシュの箱を並べた。
髪の毛の間から伸びたマヤの手が、ティッシュを3枚引き抜いて、再び髪の向こうに消えた。
ズッ、とまた音がした。

そして、鼻声で、こう言った。
「イジワル言って、ごめんなさい」
マヤの手が、ティッシュを箱ごと持ち去った。
「寂しがらせて、すまなかった」
何枚も、ティッシュを引き抜く音が聞こえた。


しばらくして落ち着いた後、マヤは、「あんまり優しいから、本当の速水さんじゃないのかと思った」と言って真澄を憤慨させた。

そして、「君が素直に寂しいと言ってくれるなんて、夢を見ているのかと思った」と言った真澄に、マヤは、しばらく鍵をかけた寝室に閉じこもって抗議の意を表した。

お互いの誤解が解けるのに、しばらくかかった。


やがて、入籍の話を始めた真澄に、「一緒に住むって、一緒に住むだけですよね?あれ?え、入籍って、結婚のこと?」とマヤが首を傾げ、「君と俺に、それ以外の何の選択肢があるというんだ」と平然と答えた。
「心の準備が整ってません」
「後でしたらいいじゃないか」
「それじゃあ、準備にならないでしょ!」

「しょうがないな。じゃあ、今、準備してくれ」
「え、今!?」
「後がいいのか?」
「そういう話じゃありません!」


テーブルの上には、空になったティッシュの箱が1つ。
すっかり冷えてしまったコーヒーと、うっすら膜を張ったミルク。

「え・・・と」
「えと、なんだ?」

覚えてはいないのに、昨夜のように、マヤは真澄の耳元に唇を寄せる。
「あの・・・ですね」
「うん?」

コニョコニョ、と小さな囁き。
それは、“それとね”の後に続いた、昨夜と同じ言葉。
しかし、真澄の頬がほころぶ。

真っ赤になってはにかみ、視線をそらせてしまったマヤに、「淹れ直そう」と、真澄はカップを手に、何度目かの席を立った。
こんなニヤけた顔を見られなくてよかった、そう思いながら、キッチンに向かう。
彼女の言葉を、心の中で何度も繰り返す。
『それとね、でもね、速水さんが好きです』
ああ、ちゃんとしたプロポーズがまだだったなと、今更ながらに気づく。

やがてダイニングの方から聞こえてきたマヤのお喋りに耳を傾ける。
いつもの、明るく弾んだ声が、それでね、あのね、と途切れず話を続ける。
しばらくして、スリッパをパタパタいわせる音が聞こえてきて、隣に並んで止まる。

小さな顔が覗き込んできた。
「聞いてる?」
真澄は手を止める。
「聞いてるよ」
そしてマヤが、笑った。


〜 Fin 〜




あとがき



マメ子様のブログに拙文を納品させていただいたお礼にいただいたSSです。
感謝感激雨アラレでございますよ。^^ 
酔っ払って強気のマヤちゃん。お説教される速水さん。なんやかや言いながら添い寝してしまう二人(^O^)
素敵なお話にぷぷぷと吹きながら何度も読み返しました〜♪^^
尚、タイトルはマメ子様のご依頼により僭越ながら私がつけさせて頂きました。^^
マメ子様 本当にありがとうございました。



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