ベビーをあげる 








 「……ベビー……あげる……」

マヤが妊娠! 嘘だろう! 相手は誰だ!
俺は目の前が真っ暗になった。マヤと付き合い始めて1ヶ月。俺はまだキスもしてないのに! 相手は一体? 桜小路か? 
俺の目の前に桜小路とマヤが抱き合う姿が一瞬浮かんだ。
いや、待て! きっと、これは何かの間違いだ。
俺は足早にその場を立ち去った。


「よお、若旦那、視察か?」

「黒沼さん……」

ここはキッズスタジオ。
仕事が早く終わった俺は、マヤを食事に誘おうと稽古場にやって来た。稽古場に行く途中、更衣室の前を通ったら、話し声が洩れて来たのだ。誰と話していたのだろう、マヤの声が「ベビーを上げる」と言っていた!
黒沼龍三の手前、俺はポーカーフェイスを取り繕った。

「稽古はもう終わったんですか?」

「ああ、今日は上がりだ」

「どうです? 紅天女本公演に向けての仕上がり具合は?」

俺が、黒沼龍三と雑談していると、マヤがやって来た。
マヤは俺を見るととびきりの笑顔をして走って来た。

「走ると転ぶぞ、マヤ」

俺は一瞬、マヤのお腹の辺りに目をやった。どこの男か知らないがマヤのお腹にその男の子供がいるんだろうか?

「もう〜、嫌味ばかり言うんだから! 何もない所でこけたりしませんよ。それより今日はどうしたんですか?」

「あ、ああ、仕事が早く片付いたんだ。一緒に飯でもどうだ?」

「きゃあ、嬉しい!」

マヤが歓声を上げる。俺は黒沼さんの手前、苦笑いをしながら、マヤを伴ってキッズスタジオを出た。マヤを助手席に乗せ車をレストランに向けて走らせる。
マヤ、一体君は俺を愛してくれているのだろうか? 相手の男とは、赤ん坊が出来る程の深い仲なのだろう。一体、誰だ、相手は! ああ、殴ってやりたい! その男を! 子供を作る程深い仲なのにマヤを捨てたのか? 相手は? 相手は一体? くそ、桜小路か? 桜小路以外に考えられないが、だったら、何故、俺と付き合う。そうとも、きっと、何かの間違いだ。俺のバカな妄想だ。俺は、目の前のマヤだけを見る事にした。忘れよう。きっと、何かの間違いだ。それに、身籠っていながら、俺と付き合うような器用な女か、マヤは。いいや、違う、断じて違う。そうとも、「ベビーを上げる」とマヤは言った。「赤ちゃんをあげる」とは言わなかった。きっと、そうだ、何かの例えか何かなんだ……。

「速水さん、どうしたんです?」

マヤが心配そうに俺を見ている。

「いや、すまない、……少し仕事で気になる事があって……」

「速水さん、仕事忙しかったんじゃないですか? あたしとデートして大丈夫ですか?」

「大丈夫だ。……俺は恋人失格だな。デート中に君に心配させるなんて……」

「ううん。そんな事ないですよ。速水さんは、世界で一番素敵な恋人ですよ!」

マヤは照れくさそうに俯いて笑った。
マヤ、君はなんてかわいい事を言うんだ。車を運転していなかったら抱きしめたい所だ。俺は、目の前のマヤに意識を集中させた。


俺達は予約したレストランで食事をした。マヤと二人で食べる食事は、例えようも無くうまかった。コース料理を食べ終わる頃には、俺はマヤの問題発言を忘れていた。マヤを送って行こうとレストランの支払いをすませていると、マヤが真っ青な顔をして口元をおさえたかと思うと、洗面所へ走っていった。

あれは、あれは、つわりか? いや、まさか、食べ過ぎたんだ! いや、飲み過ぎたんだ! 俺も、つい、飲ませ過ぎた。そうだ、きっと、そうだ。つわりなわけがない!


しばらくして、マヤがよろよろと戻ってきた。

「マ、マヤ! 大丈夫か!」

真っ青な顔をしたマヤに俺は話しかけた。俺も真っ青だったに違いない。

「大丈夫! ごめんなさい。あたし、きっと、昼間のお弁当が悪かったんだと思う。それに少し飲み過ぎたから……」

レストランの支配人は、マヤの話を聞いて、ほっとしたらしい。もし、衛生管理に問題があって、マヤが吐いたとしたら大変な事になる。俺はマヤを抱き上げた。マヤが真っ赤になった。

「速水さん、おろして……、おろして下さい」

マヤが蚊の鳴くようなかぼそい声で俺に訴える。レストラン中の視線を集めたが、構うものか!

「何を言ってる。大事な体だ」

俺はレストランの支配人に車を回させた。係の者がドアを開く。俺はマヤを車の後部座席にそっとおろした。マヤに横になるように言う。俺は上着を脱いでマヤにかけた。

「気持ちが悪くなったら言うんだぞ」

俺はマヤをアパートに送って行くと同居人の青木君にマヤをまかせた。
その後、俺は、車の中からぼんやりとマヤのアパートを見上げていた。灯りが消えるまで。次はいつ会えるのだろう。それまではメールか電話の連絡だけ。俺はどうしたらいいんだ、マヤ。……君には聞けない。



翌日、俺はマヤにメールをした。

――どうだ、体調は? 調子が悪かったら休むんだぞ。

マヤからの返事はすぐに来た。

――心配させてごめんなさい。あれから、すぐに寝たらよくなりました。食べ過ぎだったようです。速水さんと一緒に食事行く事になるとは思わなかったから、更衣室で、サンドィッチやあんぱんを食べた後だったんです。これからは控えます。

俺は一応病院に行くように勧めた。もちろん内科だ。
しかし、もし、つわりなら妊娠3ヶ月という所だろう。きちんと医者に見てもらった方がいい。だが、俺からは言えない。紅天女本公演は妊娠5、6ヶ月という所か。本公演終了まではなんとかいけるか。俺の頭に中絶という文字が浮かんだ。いや、だめだ。そんな事は……。彼女の子供なら、父親が誰であっても、俺の子供として育てよう。いや、その前にプロポーズだ。そうだ! 結婚しよう、マヤと……。もう少し先の話と思っていたが、どんな障害があるっていうんだ! そうとも、マヤと結婚しよう。そうと決まれば、指輪だな。まず、プロポーズをして、もちろん、マヤはイヤとは言わないだろう。ふっふっふ。そして、それから……。


俺の妄想はそこで途切れた。

「……すみさま、真澄様、しっかりして下さいませ!」

水城君が柳眉を逆立てて怒っていた。社長の俺を怒鳴りつけられるのも、大都グループ広しと言えど、彼女しかいまい。

「うん? ああ……、すまない!」

「何をぼんやりしてお出でです。本日の予定は……」

俺は水城君の報告を遮った。

「水城君、すまないが、1時間ほどプライベートな時間を取りたいんだが……」

「1時間ほど、、、ですか?」

「ああ、買い物に行きたいんだ、プライベートな……」

眼鏡の奥できらりと水城の目が光った。

「マヤちゃんですね? プレゼントですか?」

水城君が眼鏡をきゅっと上げて見せた。この秘書には適わない。社長室が一転、取調室になったのは言うまでもない。俺は指輪を買いに行きたい話をさせられ、結局、マヤにプロポーズしようと思っていると白状させられた。

「それでしたら紫織様の時に頼んだデザイナーはいかがでしょう。すぐに時間を作ってくれると思いますが……」

「いや、紫織さんの時と同じデザイナーというのはまずい。他のデザイナーにしよう」

「承知致しました。それでしたら、私の方で心当たりを手配しておきます。……真澄様、ようございましたね」

「まだ、イエスと言って貰えるかどうかわからんさ」

「まあ、自信の無い事を……、ほーっほっほっほっほ!」

秘書が高笑いをしながら出て行った社長室の扉を俺はしばらく見つめていたが、ふうーっと大きく息を吐き出すと、目の前の仕事に集中した。



水城君は、夕方、宝石商を呼んでくれた。宝石商は婚約指輪に相応しい指輪を幾つか見せてくれた。俺はその中に綺麗なピンク色の石のついた指輪を見つけた。ピンクといっても薄い桜色で儚げな所がマヤに似合うだろうと思った。俺がそれを見ていると

「おお、これはこれは、さすがにお目が高い! こちらのベビーピンクの指輪は、、」

俺は、思わず、身を竦ませた。ベビーピンクだと! どうしてこう、ベビーという言葉が俺の周りで氾濫する。とにかく、宝石商によると、滅多にない天然のピンクダイヤだという。だが、俺は、普通のダイヤにする事にした。この際、ベビーとつく物は持ちたくなかった。

次のデートの日。
俺は、待ち合わせ場所に急いだ。駅前の待ち合わせ場所で俺は煙草を出そうとした。すると、ポケットに入っている指輪の箱に手があたった。なんだか、そわそわする。落ち着かない。

「速水さ〜ん!」

マヤだ。俺の女神。なんて、素晴らしい笑顔だ。
俺はマヤの方へ一歩踏み出した。
マヤが俺の胸の中に飛び込んできた。

「マヤ!」

「速水さん、お誕生日おめでとう!」

「え! 俺の誕生日? そうか、俺の誕生日か!」

「やだー、速水さんったら、自分の誕生日、忘れてたの?」

「あ、ああ! すっかり忘れていたよ」

「はい、速水さん、プレゼント!」

マヤが紙袋をから包みを取り出した。

「今、開けていいか?」

「うん!」

濃いブルーのリボンのかかった包みは見掛けより重い。俺は、近くのベンチに座りリボンをほどいた。開けると、中から酒の瓶が出て来た。シングルモルトの代表格、ボウモア。ミニチュアボトル。

「ほう、これは珍しい」

ボウモアはスコットランドの酒だ。日本にはほとんど輸入されていない。特に、古い酒は。これは12年物? 瓶の蓋がすでに開けられている。俺は、はっとして、蓋を取った。途端に香しいボウモアの香りが辺りを満たした。この香り。瓶は12年物だが、中身はもっと古い。17年か18年、いや、もっと古い?

「へへ、速水さん、なんでも持ってるでしょ。何上げたらいいかわからなくて……、黒沼先生に相談したの。そしたら、速水さんみたいになんでも持ってる人は、情報をほしがるんだって言われて……。ふふ、聞きたい? そのお酒にまつわる話?」

「くっくっくっ、ああ、聞きたい。ゆっくり、落ち着いた場所で……」

俺は瓶を元にもどすと立ち上がった。マヤに手を差し出す。マヤが俺の手を取った。俺達は手を携えて歩き出した。

ミニチュアボトル。別名、ベビーボトル。そうとも、マヤが更衣室で話していたのは、これだったのだ。俺にベビーボトルを上げると……。俺は、晴れ晴れとした気持ちになった。
マヤは話してくれた。どこで、この酒に出会い、どうして、12年のベビーボトルにもっと古い酒が入っているかを。

俺はマヤの話を聞きながら、考えていた。いつ指輪をだそうかと……。








あとがき



最後までお読みいただきありがとうございました。
昔、酒造会社のCMに「ベビーをあげる」というキャッチフレーズがありました。そこから考えついたのがこのお話です。タイトルを迷いました。このキャッチフレーズを覚えている人がいたら、オチがわかるかなと思ったんです。でも、まあ、古い話なので、このままにしました。 読者の皆様へ感謝をこめて!


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