二人    連載第1回 




 アストリア号のデッキで速水真澄と北島マヤは、船が蹴立てる波の音を聞きながら満天の星を見上げていた。
茫漠とした海の上、雲一つない夜の空は輝くばかりの星空である。

マヤが言う。

「二度目ですね。満天の星……」

「え?」

「梅の里と
 この海の上と……
 あのときも速水さんが隣にいました」

波の音、風の音に混じって、かすかに楽の音も響く。
真澄もまた梅の里で共に星を見た時の事を思い出した。

「ああ、そうだな、梅の里で君と満天の星を見たな」

「はい」

「梅の里……。
 あそこは不思議な場所だった……。
 月影先生の『紅天女』を見た後、俺は梅の谷を散歩していた。
 すると、突風が起こって谷全体が光ったように思った。
 そして、見たんだ、紅天女を…。いや、見たと思った。
 だが、よく見たら、君だった」

マヤは速水を訝しげに見上げた。

(速水さん……?)

「君が紅天女の打掛けを来て梅の枝を持って、舞っていた。
 君は俺に気がつくと、小川を渡って俺の方に来ようとした。
 小川が渡れない事がわかると、君は、阿古夜の台詞を言った」

(……その後、俺は不思議な体験をした、まるで、魂が体を抜け出して……)

マヤは速水の話に、あっと思った。

(速水さん、速水さんもまさか、あの時、同じ体験をした……?)

しかし、マヤは

「……あたし、あの時、月影先生の舞台に感激して、それで、どうしても台詞を言いたくて……」

と言っていた。

(あの後、宇宙空間で速水さんと抱き合う幻を見たけど、それは言えない。
 婚約者のいる人と夢でも抱き合ったなんて)

「あの時の台詞、もう一度、聞かせてくれないか?
 あの時よりうまくなっているかどうか、俺が見てやろう」

(あの時の台詞を速水さんに!
 言えない、言ったら、あたしの気持ちがあふれて、速水さんにわかってしまう)

「あの時の台詞ですか? あの、あたし、言えません」

「何故? 梅の谷では言ってくれたのに」

「だって! だって! だって!」

「だってなんだ。それとも、自信がないのか?
 ……憎んでる男には言えないか?」

「誤解です、あたし、もう速水さんの事、憎んでなんかいません」

「だったら、台詞を言って証明してくれ」

「う……」

マヤは困った。困ったが、深呼吸をして気持ちを落ち着けた。

「わかりました、速水さん、でも、ここは人目があります。
 お芝居の台詞でも、知らない人が聞いたら誤解するかもしれません。
 だから、海に向っていいます」

「ああ、それでいい。言ってくれ」

マヤは眼を閉じて気持ちを作った。
再び眼をあけた時、マヤは阿古夜になっていた。
満天の星空の下、夜の海に向ってマヤは阿古夜の台詞を言った。

「あの日、はじめて谷でおまえを見た時
 阿古夜はすぐにわかったのじゃ
 おまえがおばばのいう もう一つの魂の片割れじゃと……。
 捨てて下され
 名前も過去も……。
 阿古夜だけのものになって下され……
 おまえさまはもうひとりのわたし
 わたしはもうひとりのおまえさま……」

速水は眼を閉じて聞いていた。
怪我をした時の事がよみがえる。

(マヤ……。あの時の台詞だ。今まで聞いたどんな愛の台詞よりも真情にあふれている。
 あの時、阿古夜が去って行った喪失感。
 失いたくない。行かないでくれと夢の中で俺は叫んでいた。
 マヤ、君を失いたくない。
 君がいつか誰か他の男の物になるなんて……。
 誰か他の男を愛するようになるなんて……。
 俺には耐えられない。
 ……
 婚約を解消したい。
 紫織さんには悪いと思う。
 だが、あの人と結婚は出来ない。
 今日、ロイヤルスィートに行ってわかった。
 紫織さんをこの腕に抱く事は出来ない。
 ……
 マヤが俺を愛してくれなくてもいい。
 せめて、マヤに申込む資格がほしい)

マヤの台詞が終わった。
速水は、拍手をしていた。

「素晴らしい! 腕を上げたな。ちびちゃん!」

マヤは速水を見あげた。顔が赤くなる。思わず俯いた。

「ありがとうございます。速水さんに褒められるとは思っていませんでした」

「なに、君が俺を憎んでないとわかって俺も嬉しいよ」

「あの、それと……、速水さん。
 ……先日は暴漢から守って下さってありがとうございました。
 御礼を言うのが遅くなってしまって」

「気にするな。そういえば……」

速水は胸ポケットからハンカチを取り出した。

「これは君のか?」

「あ! あたしの!」

マヤは真っ赤になって、ハンカチを引ったくった。同時にくるりと一回転して速水に背を向ける。
速水は、マヤのあまりの素早さに唖然としながらも、マヤの背中に向って話しかけた。

「君はあの時、俺についていてくれたのだろう。
 ありがとう、礼を言うのは俺の方だ。
 君こそ、怪我をしなかったか?」

「はい、大丈夫でした。
 速水さんが守ってくれたから……」

マヤは、泣き出しそうになった。必死でこらえる。
眼をしばたたかせて、涙を乾かすと振り返った。
速水を見上げ、ゆっくりと応える。

「……あの、紫織さん、貧血で倒れていたんです……。
 それで……、あたしが速水さんの側についていました。
 ハンカチで額の血をお拭きしました。
 ……紫織さん、あとで社長室に来られて、あたし、後をおまかせして帰ったんです。
 社長室を出る時、あたし、あせっちゃって!
 それで、ハンカチ落としたの、気がつかなかったんだと思います」

「……、俺はあの時、不思議な夢を見た。
 君が額の血をぬぐってくれて、阿古夜の台詞を聞いた。
 さっき、君が聞かせてくれた台詞だ。
 今まで聞いたどんな台詞より、真心のこもった愛の台詞だった。
 あれは、やはり君だったんだな」

マヤは再び俯いた。

「あたし……、速水さんが怪我して眠ってたから、それで、台詞の練習をしていたんです。
 それだけ……」

マヤの声が小さくなる。
速水は思った。

(君の涙を額に感じ、君の唇が額に、唇にふれたように思ったと言ったらこの子はどうするだろう。
 ……しても、していなくても否定するだろう。
 もしかしたらと思ったが……。
 マヤがそんな事をする筈がない。
 この子は紫のバラの人に恋をしているのだから。
 俺が作った幻影。
 それが、この子の恋の相手だ)

速水は胸が痛んだ。決して振り向く事のない相手。
その相手に軽口をたたいて自身の感情を押し殺す。

「俺が眠っていたら、俺を一真に見立ててくれるのか?
 だったら、もう一度、君の側でいねむりをして見たいものだ」

マヤは話がそれたので、元気を取り戻した。

「だって、起きている時の速水さんはいじわるなんだもの。
 あたしを子供扱いするし、豆だぬきっていうし……」

速水は苦笑しながら続けた。

「さっきの台詞も素晴らしかったが、あの時聞いた台詞はもっと真にせまっていた。
 俺は夢の中で去って行く阿古夜に思わず呼びかけていたよ。
 『行かないでくれ』と。
 冷血漢の俺にたとえ夢の中でも『行かないてくれ』と言わせたんだ。
 あの時の阿古夜は本当に素晴らしかった。
 舞台の上で、ぜひ、もう一度言って貰いたいものだ」

マヤは速水を見上げた。

(速水さん、紫のバラの人、あたしが阿古夜だったら、『行かないでくれ』と言ってくれるのですか?
 北島マヤではなく、阿古夜だったら。
 ああ、阿古夜になりたい……)

万感の想いをこめて見上げるマヤに速水は沈黙で応える。
その時、一陣の風が吹いた。マヤの髪が乱れ、肌が粟立つ。

「さ、冷えて来た。そろそろ、屋内に入ろう。
 ……そうだ、君はさっき、自分は大人で酒も飲めると言ったな」

「お酒ですか……」

「ここのバーには世界中の酒が100種類以上あるそうだ。
 どうだ、飲みに行かないか?」

マヤは嬉しかった。速水に大人扱いされたように思った。

「はい、行きます!」

元気に応えるマヤを伴って速水はバーに向った。



続く      web拍手 by FC2     感想・メッセージを管理人に送る


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