ヴァリエーション    連載第1回 




 アストリア号での幸福な一時を過した速水真澄と北島マヤ。
 速水真澄は北島マヤこそ自身の魂の片割れであると確信、鷹宮紫織と婚約を解消しようと決心していた。

 アストリア号から降りマヤをアパートに送った後、速水真澄は社用車の中でメールをチェックしていた。
その中に聖からのメールがあった。

件名:先様からお預かりのアルバムの件
内容:
先日、先様にお伺いしました所、以前からお預かりのアルバム、紫のバラと共に写真が引き裂かれた状態で送り返されたと同じ劇団員の方々から聞きました。一 緒に送られたメッセージには「これが最後のバラです。女優としてのあなたに失望しました。もう二度とあなたの舞台を観る事はないでしょう」と書かれていた そうです。ところが、ご本人と面談致しました所、気にしていないご様子で、大変明るい感じでした。尚、先様から伝言です。「信じていますから」と伝えてほ しいとの事でした。アルバムの件、何かお心あたりはございますか?

メールの中身を見て速水はぎょっとした。
自分の別荘にある筈のマヤのアルバムが、写真が引き裂かれた状態でマヤに送り返されたというのだ。
速水は自宅に戻ると着替えもそこそこに飛び出していた。
愛車に飛び乗りアクセルを踏み込む。
車を運転しながら道々考えた。

−−何故だ、何故、別荘にある筈のアルバムがマヤに送り返されている?

速水の中で疑問が繰り返された。

伊豆の別荘に着くと、速水はすぐに、書棚を調べた。

−−ない! そんな馬鹿な!

アルバムが或る筈の場所を速水が総て調べ終えた頃、玄関のチャイムが鳴った。
速水が玄関に出てみると、鷹宮紫織が立っていた。
上品な白のワンピースを纏った鷹宮紫織。
わずかに俯き恥ずかしそうにしている。

「紫織さん!?」

「真澄様、あの……、ご自宅に電話をしたら、こちらだと伺ったものですから」

速水は紫織を招じ入れると、ソファを勧めた。
が、紫織は立ったまま顔を赤らめながら速水に言った。

「……昨夜は残念でしたわ、ご一緒出来なくて」

紫織はそういいながら、ゆっくりと速水に近づいた。
そっと、速水の胸に身をなげかけようとする。
ところが、速水はやんわりとかわした。
速水を見上げる紫織は戸惑いを隠せない。
速水は紫織から眼をそらし窓際に歩み寄る。
窓の外を眺めながら紫織に話しかけた。

「紫織さん、何故、あんな事を? 船に誘われるとは思ってもいませんでした」

速水の口調に、紫織は違和感を感じた。

「私、あなたと絆を深めたかったのですわ。
 あなたのお心が私にないような気がして……」

「僕は、ああいう不意打ちは好きではありません。
 紫織さん、申し訳ないが、今、僕は忙しいんです。
 今日は、これで……」

速水がそう言うと、紫織は何か考えるふうだった。

「真澄様、何かをお探しですの?
 ……例えば、マヤさんのアルバムとか」

「紫織さん!」

「私が返しておきましたわ。
 だって、私という婚約者がいるのですもの。
 もう、必要ございませんでしょう。
 ……真澄様、紫のバラをマヤさんに贈るのはやめて下さい!」

「!……」

「以前、マヤさんのアルバムをここで見つけて、私、不思議に思っていましたの。
 何故、マヤさんのアルバムがここにあるのかと?
 劇団『つきかげ』の方に聞きましたの。
 マヤさんには『紫のバラの人』という足長おじさんがいると。
 以前、マヤさんが舞台写真のアルバムをその方に贈ったと言っていましたわ。
 あなたなのでしょう、真澄様」

真澄は黙った。表情を固くして紫織を見ている。

「ここに……」

紫織は書棚の前に立つと、すっと腰を落とした。
書棚の最下段、片開きの扉を開ける。
そこから、マヤの卒業証書を取り出した。

「ここにマヤさんの卒業証書がありますわ。これでも、あなたは私に本当の事を言って下さいませんの?」

真澄が重い口を開いた。

「……そうです、僕が彼女に紫のバラを贈っていました。
 それであなたはマヤにアルバムを送りかえしたのですか?」

「……ええ、そうですわ」

「写真を……、びりびりに引き裂いて?」

「ええ、破きましたわ!」

「これが、最後のバラですというメッセージをつけて?」

「そうですわ。あの子に私たちの周りをうろうろされたくなかったのですわ!」

「北島がどれほど傷つくか、考えなかったのですか?
 大事な舞台を前にしているのですよ……」

真澄は、はっとした。

「まさか、まさか、マヤのバックにわざと指輪を入れたのですか?
 あのジュースも……、マヤにドレスを汚させる為に?」

「……そうですわ」

「何故、そんな事を?」

「あなたの心からマヤさんを消すため!
 ……マヤさんを愛しているのでしょう?」

速水は答えなかった。

「紫織さん、婚約を解消しましょう」

「真澄様!」

「僕はあなたと結婚出来ない。
 昨夜、わかったんです。あなたが絆を深めようと用意した船の上で。
 これ以上、自分の気持ちを誤摩化す事は出来ない」

「マヤさんを、マヤさんを愛しているから?」

「いいえ……」

速水は逡巡した。真実を告げるべきか。

「……あなたを愛していないから。
 あなたを愛そうと努力した。
 あなたを愛さなければと。
 だが、昨日、船の上で悟ったのです。
 あなたをこの腕に抱く事は出来ないと。
 すまない、紫織さん」

「ひどい! 式まで後少しですのに!
 今になって、あんまりですわ!
 何故、私にプロポーズしたのです!
 甘い言葉で私を誘って!」

紫織は泣きながらバルコニーに飛び出した。
手摺に駆け寄る。

「私、私、ここから、飛び降ります!
 あなたに振り向いて貰えないなら死んだほうがましですわ」

「紫織さん!」

鷹宮紫織はバルコニーの手摺から身を乗り出した。
下は断崖絶壁である。
速水は駆け寄ろうとした。

「来ないで! そこから動かないで! 動いたら飛び降ります。
 婚約は解消しません。あなたは私の物よ、私の!
 真澄様、私と約束して、もう二度とあの子に紫のバラを贈らないと!
 私一人の物になって!」

「すまない、紫織さん、それは出来ない」

「何故! あの子のどこがいいんです! 私のどこがあの子より劣っていると言うんです!
 死んでやる、死んでやる!」

紫織は泣きじゃくった。バルコニーの手摺から、さらに身をのりだす。

「待て! 待つんだ、早まるな。わかった、君の言う通りにしよう! 落ち着いて、落ち着くんだ」

紫織は真澄の言葉を聞くとゆっくりと振り向いた。

「本当に! 本当に?」

「ああ、約束しよう。だから、さあ、こちらにいらっしゃい!」

真澄は、紫織を受け止めるように両手を広げた。
紫織は真澄をまじまじと見た。
そして手摺から大きく乗り出していた体をゆっくりと元に戻した。速水が駆け寄る。
速水は紫織の腕を掴み引きずるように室内に入れた。

「いや、痛い、やめて! 離して!」

真澄はそのまま紫織をソファに突き飛ばした。ソファに倒れ込む紫織。
真澄はフランス窓を閉めると鍵をかけた。カーテンを引く。

「真澄様!」

真澄は肩で息をしている。怒りと絶望感が真澄の端整な顔をゆがめていた。

「紫織さん、わかりました。婚約を解消するのはやめましょう。
 北島に紫のバラを贈るのもやめましょう。
 ただし、これだけは覚えておいて下さい。
 僕はあなたを愛せない。
 愛のない結婚を望んだのはあなただと言う事を!」

「真澄様!」

「さあ、もう、気がすんだだろう、帰ってくれ!」

紫織は立ち上がると泣きながら別荘を飛び出した。
車に乗り込み、運転手にすぐに車を出すようにとヒステリックに叫ぶ。
運転手は事情がわからないまま、車を発進させた。

真澄は紫織の車が走り去る音を遠くに聞きながら、生涯で最悪な気分に浸っていた。

−−やっと、やっと魂の片割れに出会えたと思ったのに。

速水真澄は、自身の気持ちに蓋をして鷹宮紫織にプロポーズした事を、心底後悔していた。



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