明日へ! 連載第1回
「紫織さん、なんという事を」
速水真澄は、結婚式場の総支配人をすぐに呼んだ。総支配人に、鷹宮紫織は化粧直しをしている最中に貧血を起こし、倒れた弾みでコンパクトの鏡が割れ、破片が腕に突き刺さった為こんな怪我をしたと話した。一見、自殺に見えるが決してそうではないと総支配人に言い含めた。総支配人は速水の意向を受け、従業員や救急隊員にもそのように説明した。
また、速水は鷹宮の人々にも同じ説明をした。
「申し訳ありません。僕がついていながら……」
「いや、真澄君、仕方ないよ。紫織の貧血はいつもの事だ。間が悪かったのだろう。幸い怪我は大した事なかったし……」
速水は鷹宮紫織のベッドに付き添い、紫織が目覚めるのを待った。紫織が目覚めると速水は気分はどうかと聞いた。速水は紫織の受け答えがはっきりしているのを確認すると紫織に向って低い声で囁いた。
「紫織さん、今回の件は事故で処理しました。いいですね。あなたは、化粧室で貧血を起こし倒れた。その時、コンパクトの鏡が割れ、運悪く手首に突き刺さった。お爺様やご家族の方にはそのように説明しましたから……。式場の支配人にもそう言い含めました。口裏を合わせて下さい。……僕はまだあなたの婚約者を続けましょう。あなたを……、死なせるわけには行きませんから……」
「ま、真澄様、あの……、では……、私を選んで下さいましたのね」
紫織の安堵した表情に、速水は眉を寄せた。
「では、僕はこれで……」
速水は紫織から目をそらすと、病室を後にした。
鷹宮紫織は速水が出て行った扉を見つめながら思った。
――いいのよ、これで……。真澄様にやっと私の真心が通じたのだわ。
紫織の脳裏に結婚式場での真澄の言葉がよみがえる。
――『僕ではあなたを幸せに出来ない。紫織さん…… 僕もまた……』
いいえ、いいえ、きっと、きっと、二人で幸せになれますわ。
鷹宮紫織は速水真澄をしっかりこの手に勝ち取ったと思った。
――決して離しませんわ。真澄様。あなたは私の物、未来永劫、私の物ですわ。
一方、北島マヤは、速水真澄と思いが通じ、速水の言葉を信じて、芝居の稽古に打ち込んでいた。
――『マヤ、この先、何があっても俺を信じてついてきてくれるか?
しばらくは会えないかもしれないが きっと君をいい形で伊豆に迎えたいと思う。
待っていてくれ』
速水さん、今でも信じられない。速水さんが、私を……。
試演、がんばろう。きっと、速水さんに喜んで貰えるような演技をしよう
が、何時になっても、鷹宮紫織と速水真澄の婚約が解消されたという話は流れて来なかった。マヤは週刊誌や新聞を気をつけてみていたが、そういう記事は出なかった。
――あんなにお金持ちの家同士の結婚なのだから、解消するのはきっと大変なんだ。
マヤは鷹宮紫織が速水を物凄く好きな事を知っていた。紫織に対し申し訳なく思ったが、速水の気持ちを考えると、この恋は譲れないと思った。
一方、稽古は絶好調だった。マヤの恋の演技は飛躍的に良くなっていた。速水と想いが通じたその喜びがマヤの恋の演技を格段に素晴らしい物にしていた。
やがて、桜小路が復帰した。桜小路もまた、病院のベッドの上で、一段上の役者になっていた。が、速水とマヤの抱き合うシーンをみてしまっていた桜小路は、マヤとの間に弱冠の拘りが生まれていた。
「マヤちゃん、今の恋の演技凄く良かったよ。一体、誰を相手に演技したんだろうね」
「僕は、もう、君を送っていけない。ほら、事故っただろう。オートバイも駄目になったし、まだ、うまく体が動かないんだ。しばらくタクシーで帰るよ。じゃあ」
桜小路からこんな台詞を聞かされる度にマヤは、どうしたんだろうと思った。あの日、一人で帰ってと言った為に桜小路が事故にあったのだと思うとマヤは桜小路に対する申し訳なさで一杯になった。
しかし、マヤに当て擦りや嫌味を言う桜小路だったが、芝居の上では、逆にプロに撤しようとしているのか、桜小路の演技は以前と変わらなかった。いやむしろ、怪我によって全く別の一真を生み出していた。そして、マヤは桜小路がどんな演技をしようと桜小路の演技をしっかりと受け止めた。桜小路と共に作り上げる紅天女の世界。一真と阿古夜の世界。演技に没頭すればするほど、桜小路の拘りは希薄化して行った。
或る夜、黒沼は速水と屋台で会っていた。
続く
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