明日へ!    連載第2回 




 「よ! 若旦那、久しぶりだな」

速水の前に黒沼龍三が屋台ののれんを片手で上げながらやって来た。祖末な椅子にどすんと座る。椅子が壊れそうだ。黒沼は店主に幾つかのおでんとビールを注文した。

「黒沼さん、お久しぶりです。その後どうです? 桜小路の傷が芝居に響いていませんか?」

「ああ、なんとか、切り抜けられそうだよ」

その時、速水の携帯が鳴った。速水は携帯を出すと紫織からの電話に眉をしかめた。速水はそのまま携帯の電源を切った。

「うん? どうした若旦那? 俺なら構わんぞ!」

「いえ、大した相手では無いので……、そういえば、先日は紫織さんの方から一千万の小切手を渡すなどと、大変失礼な事をしてしまいまして……」

「ああ、若旦那が気にする必要はないさ。俺はなんとも思っちゃいない。小切手を破いてくれてありがとうよ。後は心配するなと言ってくれたそうだな、北島が喜んでいたよ。……北島も最近はめきめき良くなってな。特に恋の演技は俺が指導する必要がない程だ」

「……」

「ただな、最後の対決の所がうまくいかんのだ」

「一真と紅姫との対決シーンですか?」

「ああ、そうだ。桜小路が怪我で休んでいたのもあるが、対決シーンが掴みきれてないんだ。二人とも……。一真と阿古夜は引き離される……。まず、ここだ。引き離される苦しみ。ここが、わかってない。別れていた一つの魂がやっと巡り会って一つになったんだ。それなのに引き裂かれる。その苦しみは尋常な物ではない。それを、二人は分かってないんだ。だから、その後もずるずると中途半端になっている……。桜小路の方はおそらく、北島が掴みさえすれば、北島に引きづられるだろう」

「では、北島がこの芝居のキーに……」

「ああ、そうだ」

その後、速水は黒沼と様々な話をしたが、ほとんど、覚えていなかった。マヤに別れの辛さを、二つに別れた一つの魂が出会い、そして、引き裂かれる苦しみを、速水だけがマヤに実体験させる事が出来た。が、それは、速水自身にとっても身が引き裂かれる程の辛い行為だった。それでも、速水は自分がするべき事を知っていた。



速水は、マヤと連絡を取った。次の休みに伊豆に遊びに行こうと。

――『きっときみをいい形で伊豆に迎えたいと思う』
  速水さんははっきり言わないけど、きっと、紫織さんとの事がうまく行ったんだ。

マヤは速水を信じた。速水と二人、別荘に行く。マヤは有頂天になっていた。

――何を着ていこう、向うに行ったら何を着よう。これは子供っぽいかしら。速水さんに大人になるって言ったんだもの。でも、大人過ぎてもおかしいし……。

マヤは恋の喜びに浸っていた。

次の休み、速水は伊豆の別荘にマヤを招き入れた。
初秋の午後、日射しは明るく、海は輝いていた。速水は「紅天女」の為とはいえ、マヤに嘘をつくのが辛かった。が、速水は嘘を忘れた。自身、鷹宮紫織との婚約が解消されたのだと思い込もうとした。鷹宮紫織の自殺未遂を無い物にしたかったのは、速水自身だった。

「速水さん! きゃあ、カニが! カニがあんなにあぶくを吹いて!」

無邪気に喜ぶマヤを速水は愛しそうに眺めた。

――ただ、一度だけ、一度だけ夢が見たい。

速水の心情を知ってか知らずかマヤは、子供のように歓声を上げていた。
ひとしきり、砂浜を散歩した二人は別荘に戻った。別荘に戻り、落ち着くと速水は大きな箱をマヤに渡した。

「速水さん、これ? あたしに?」

「ああ、開けて見てくれ」

箱を開けると、中から紅梅の打掛けが出て来た。

「わあ、きれい!」

「君にぜひ、それを着て紅天女を演って貰いたい」

「速水さん! あの、いいんですか? あたしなんかがこんな綺麗な打掛けを貰って……」

「ああ、君の為に用意させた物だ。随分前から……。紫のバラの人からと言えば君は素直に貰ってくれるのか?」

「速水さん!」

マヤは速水の胸に飛び込んでいた。速水を抱きしめる。

――やっと、やっと、紫のバラの人が名乗りを上げてくれた。

マヤは泣きじゃくっていた。

「は、速水さん、あたし……、あたし、ずっと……、ずっと待ってた。紫のバラの人が名乗ってくれるのを……」

「やはりな、一体いつから知っていた?」

「『忘れられた荒野』の受賞式の時から……」

マヤは速水に何故わかったか、泣きながら話した。速水はマヤの涙を指でそっと拭った。

「君は俺が紫のバラの人だとわかって失望しなかったのか? 君は俺をげじげじと呼んで嫌っていたのに……」

「あたしね、速水さん、速水さんが紫のバラの人だって気が付く前から速水さんに魅かれてた。速水さんが『忘れられた荒野』を嵐の中、見に来てくれて……。速水さんが、見掛け通りの人じゃないんじゃないかって……。ううん、もっとずっと前から……。速水さんが見合いしたって聞いた時、もう好きだったんだと思う。なんとなく、心がざわついて、落ち着かなかった……。
どうして、もっと早く、名乗ってくれなかったんですか?」

「……俺だとわかったら、君はきっと失望すると思った……。唯一の絆が切れそうで言えなかった」

「速水さん……」

速水はマヤにそっとキスをした。それから、熱くマヤを抱きしめた。マヤの目から涙が滴り落ちる。

その夜、二人は互いの腕の中にいた。

「マヤ、君は魂の片割れを信じるか?」

「え?」

「俺は信じる。君が俺の魂の片割れと……」

「速水さん……、あたしも……」

風が吹き、雲が流れた。満天の星空。銀河がくっきりと浮かんでいた。





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