恋人   連載第1回 




 アストリア号は、順調にクルーズを終え、まもなく、港に入ろうとしている。
東京湾の向うに都会のビル群が視界を覆う。
速水とマヤは、言葉もなくスポーツデッキにたたずんでいた。

――船を降りたら、次は何時マヤと話せるだろう?
  紫織さん……、紫織さんには悪いが、婚約を解消しよう。
  マヤ、俺は、もう、君無しでは生きられない。

「マヤ……」

「速水さん……」

二人は同時に口を開いていた。目を見合わせ互いにくすりと笑う。

「電話してもいいか? マヤ」

「はい、速水さん……。あ! あたしの携帯の番号。ちょっと、待ってて下さい」

マヤはスポーツデッキのロビーに走って行った。速水のコートと自分のバックを持って戻る。

「携帯を持っているのか?」

「はい」

マヤはバックの中から携帯を取り出して速水に見せた。

「だったら……」

速水はマヤの携帯を借りると自身の電話番号をコールする。
すでに携帯の電波が届く所にまで船は近づいていた。
次に自身のメールアドレスに空メールを送った。
こうして、速水とマヤは互いの携帯番号とメールアドレスを交換した。

「速水さん、これでいつでも、速水さんと連絡が取れますね」

マヤは速水を見上げて嬉しそうにはにかみながら言った。
マヤの心は恋の喜びに震えていた。喜びは理性を吹き飛ばしていた。

「いつも聖さんに伝言を頼んでいたから……」

「マヤ!」

マヤは、はっとした。慌てて口を押さえたが遅かった。

「ああ、そうか……、もちろんそうだ、そうなんだ。一体、何時から……?」

マヤは顔を赤くした。俯きながら答えた。

「あの、あの、『忘れられた荒野』の授賞式の時から……」

速水はため息をついた。

――そんなに前から……

「俺はいままで君を、舞台を降りたら大根だと思っていた。
 とんでもない間違いだったな」

マヤは決心した。今、言わなければ一生後悔する。二人でいられる時間は後、わずかである。

「速水さん、紫のバラの人、今までありがとうございました。
 あなたのおかげで、ここまで来れました。
 あたし、きちんと御礼が言いたかった。
 本当に長い間、ありがとうございました」

マヤは深々とお辞儀した。
顔を上げると速水が複雑な表情を浮かべてマヤを見ていた。

――もう、紫のバラの人としてマヤを支えられないのか……

速水の胸に一抹の寂しさが去来する。

「いや、礼などいい。君を支える事で俺自身が支えられていた……」

ボーーーー!

汽笛が鳴る。船が港に着いたようだ。人々が船から降りて行く喧噪がスポーツデッキに伝わってくる。
船の10階にあるスポーツデッキにはマヤと速水の二人だけである。

――船を降りたら……

速水の胸に降りた後の修羅場が思い浮かぶ。

今、この時、この一瞬!

蒼穹の空の元、速水は思わず腕を伸ばし、マヤを抱き寄せていた。
マヤもまたひしと速水を抱きしめる。
速水を見上げるマヤ。
速水はマヤの濡れた瞳を覗き込んでいた。
そこには、マヤの愛が大海原のように広がっていた。

「マヤ……」

速水はささやいた。

「速水さん、あたし……」

マヤの瞼が近づいて来る速水に合わせて閉じられる。
マヤの耳の奥で心臓の音が聞こえる。自身の心臓の音か、速水の鼓動の音なのか……。

速水はマヤの髪に手を差し入れた。

 ゆっくり、
 ゆうっくりと
 マヤの唇に
 震えながら
 そっと……
 唇を重ねた。

震えていたのは速水なのか、マヤなのか。

二人にはわからなかった。

唇と唇が触れ合って……

そして……

世界が溶けた。




一体何時までそうしていただろう!

ボーーーー!

船の汽笛がもう一度鳴った。
船客達に下船を促す汽笛である。
速水はマヤを離した。

見つめ合う二人。
立ち尽くす二人。

速水はマヤに手を差し出した。
それが何を意味するのか……。
マヤには、その意味がわかっていた。
速水の手を取る。

――この手は決して離さない……

二人は同じ思いを抱いて歩き出した。




続く      web拍手 by FC2     感想・メッセージを管理人に送る


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