迷犬マスミン    連載第1回 



 梅雨が明けた夏の夜。湿気で息がつまりそうだ。いや、湿気のせいばかりではなかった。
俺は婚約者殿とオペラを観た後、婚約者殿を運転手に託し一人になろうとした。携帯に仕事のメールが入っていたと嘘をついたのだ。しかし、今日に限って婚約者殿は駄々をこねた。

「真澄様、もう、こんな時間ですのよ。私、真澄様とオペラのお話しをしとうございましたのに」

「……紫織さん、大変申し訳ない。この埋め合わせは次の休みの日に必ず。申し訳ありません。紫織さん……」

俺は平謝りに謝って紫織さんを車に乗せた。
婚約者殿はこの頃、なにかと言うと俺と深夜まで一緒に居たがるのだ。腕を組んできたり、抱きついてきたり、最初は婚約者だからと思っていたが、うすうす、俺と関係を持ちたいと思っているのが見えてくると、少し距離を置きたくなるのが男心と言うものだ。
今日のオペラも「マノン・レスコー」、恋愛物だ。
隣の席に座っていたら、そっと俺の腕を掴んでくる。俺は婚約者殿を嫌いではないが……。彼女の温もりを暑苦しいと思うのは婚約者として、失格なのだろうな。
それに……。疲れる。彼女と会うとひどく疲れるのだ。ふう、俺はため息をついた。

劇場の前はオペラを見終わった人で溢れている。婚約者と別れて、ふと見ると、道路の先に樹が生い茂っているのが見える。公園のようだ。俺は一息つこうとその公園へ向った。
公園に入るとベンチにホームレスの老婆が寝ていた。俺は公園の反対側まで歩いて行って、ベンチに座った。煙草を取り出し一服する。すると犬の吠え声が聞こえた。それから、悲鳴。さっきの老婆だ。犬に襲われているらしい。俺は、走っていって野良犬を蹴散らした。

「おい、大丈夫か?」

老婆は犬に手を噛まれていた。老婆は口が聞けないくらい怯え、わなわなと震えている。俺は待ってろと老婆に言って、近くのコンビニに走って行き水と包帯を買って戻った。水で傷口を洗ってやり包帯を巻いてやった。そのまま、立ち去ろうとしたら老婆が初めて口を聞いた。

「あんた、あ、ありがとう!」

「どう致しまして」

「ありがとう、本当にありがとう!」

老婆が泣き出した。

「礼はいいよ。おばあさん。それより、もっとましな寝床を探した方がいいぞ」

老婆は泣き止むと口を開いた。

「わしはあんたに礼がしたい。したいんだよ。礼をさせておくれ! わしはこれでも、手相を観るんだよ。観て上げよう。さ、手を出してご覧よ」

俺は苦笑しながら右手を出した。占いなど信じてなかったがこの老婆が礼をしたいという気持ちを軽くしてやりたかった。

「ふむ、これは凄い手相だね。しかし……、……あんた、悩みがあるね」

俺はさらに笑いを漏らした。占い師がよく使う手だ。

「悩みのない人間なんていないだろう」

「御礼にわしがあんたの悩みを解決してやろう」

「何をいいだすかと思えば……。御礼なんて考えなくていいから……、それより、区役所かどこか、あんたみたいなホームレスを助けてくれる所へ行ったほうがいいぞ」

「ありがとうよ、でも、こういう事はわしにしか出来んでな」

老婆はにたりと笑うと、懐から棒を取り出した。

「にたし、みたし、はりどねす、犬になあれ!」

棒がぴかりと光ったかと思うと俺は衝撃を受けていた。悲鳴が聞こえる。自分自身の悲鳴で頭が割れそうだ。そして、世界がぐにゃりと曲がった。……気が付くと俺は地面に這いつくばっていた。

「ばあさん! 何をした?」

「あんたは犬になったんだよ」

老婆がコンパクトを出して俺の姿を見せてくれた。鏡の中には真っ黒な犬が一匹。ラブラドール・レトリーバーだ。

「嘘だろう。どういうトリックだ」

老婆は立ち上がると俺の頭を撫でた。
その時、声がした。

「真澄様!」

聖だ。俺を遠くから警護していたのだろう。

「聖、ここだ」

わんわんわん。これが、俺の声か?

「きさま! 真澄様に何をした?」

聖が老婆に掴み掛かる。

「待ちなさい! お若いの。あんた、今の見てたんだね。だったら、この犬があんたの知り合いだって信じるね」

「一体、何のトリックだ。確かに真澄様が犬になった。だが、それはトリックだろう。人が犬になる訳が無い!」

「この犬は真実この人を愛している人がキスをしたら元に戻るよ。この人はわしを助けてくれたんでね。それで、この人の悩みを解決してやろうと思ったんだ。この人はしばらく人間じゃなくなった方がいいんだよ。その間休めるだろう?」

「あんた! 何者だ。人を犬に変えるなんて! 実際に見ていなかったら信じない所だ」

「わしかい? ただのホームレスさ……。さ、さっさとその犬を連れてお行き。戻りたくなったら母親か奥さんにキスをして貰えばいい。ああ、洋服を忘れないようにね」

聖が俺の洋服やら携帯やらをかき集めている間、俺は老婆と話をした。

「確かにあんたの言う通り、この姿なら何も考えずに休める。あんた、魔女かなんかか?」

俺は自分で言っておかしかった。魔法なんてこの世にあるわけがない。

「わしかい。昔、若い頃、この世界に魔法が溢れていた頃、確かに魔女だった。だけど、今はあんたを犬に変えるくらいの力しか残ってないさ。それも、数年に一度しか使えない魔法さ」

「それなら、自分の為に使えば良かったじゃないか?」

「いいんだよ。人に親切にされたのは、もう、覚えてないくらい昔の話だからね。親切が身に沁みるんだよ」

聖が口を挟んできた。

「おまえ、犬の言葉がわかるのか?」

「ああ、この犬は元人間だからね。わしにはわかるよ。あんた、この人の部下か何かかい?」

「ああ、そうだ」

「自分の命よりも主人の為に働きたいと思っている?」

「そうだ」

聖が迷いなく答える。おまえの忠誠心、俺は果報者だ。

「だったら、よく聞いているとわかるよ。いいかい、心で聞くんだよ。さ、あんたもこの人と言葉が通じなかったら困るだろう。いいかい、この人に向って頭の中でゆっくり話しかけるんだ」

「ひ……じ……り、お……れ……だ、ま……す……みだ」

聖は黙って俺を見ていた。だが、はっとした顔になった。

「聞こえました。確かに!」

「そうかい、良かったよ」

老婆がこれで問題は片付いたとばかりに、もう一度ベンチに横になった。

「さてと、そしたら、私たちと一緒に来て貰いましょうか?」

聖が老婆の腕を掴んで起した。老婆が怯えた顔で聖を見上げる。

「一緒にって?」

「真実、真澄様を愛している人がキスをしたら本当に人間に戻れるのか、確認出来るまで私の目の届く所にいて貰います。さ、参りましょう。あなたの名前は?」

「名乗る程でもないよ。……そうだね、セツと呼んでおくれ。……あたしはここで、次の満月の夜に人と会う約束をしているんだよ。その時はここに来ていいかい?」

「次の満月というと1週間程先か……、いいでしょう。僕が連れて来てあげましょう」

聖は俺と老婆のセツを連れて車へ向った。車の中で俺と聖は話し合った。取り合えず、俺のマンションへ行く事にした。あそこなら、老婆のセツをお手伝いとして雇ったと言えばいいだろう。セキュリティは万全だし、地下駐車場から直接エレベーターで部屋まで行ける。老婆を隠しておくのにちょうど良かった。

俺達は俺のマンションに落ち着いた。老婆が言う。

「あんた、自由になったら何をしたい?」

「そうだな……。そうか、この姿ならなんでも出来るんだ。少なくとも速水真澄でなくなれるんだ」

「真澄様、しかし、仕事はどうなさいます?」

「仕事か……。仕方が無い……。一日だ。一日だけ、俺に自由をくれ」

「わかりました。では、明日、土曜日は風邪で休むと秘書の方にメールしておきましょう」

「ああ、頼む。日曜日の夜、紫織さんの所に連れて行ってくれ。紫織さんにキスをして貰えばいいだろう」

俺は紫織さんの目の前で俺が犬から人間になったら、彼女がどんな顔をするか考えない事にした。
ましてや、紫織さんのキスなど……。
しかし、こんな俺を愛してくれるのは彼女しかいないのだ。俺はため息が出た。

「聖、俺はもう休む。後を頼む」

俺は聖に老婆の世話を頼むと寝室で横になった。
俺は犬の体に慣れて来るとだんだん自由になった喜びがふつふつと沸いてくるのがわかった。
それに……。
マヤも俺だとわかるまい。
マヤは犬が好きだろうか?
ああ、だが、昔、劇団オンディーヌの飼い犬をけしかけられていたな。
あれで、犬が苦手になっただろうか?
もし、苦手じゃないなら……。

俺は明日、聖とマヤに会いに行こうと決心していた。





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