狼の夏    連載第1回 




パシッ!
高らかに響いたその音は、速水真澄が鷹宮紫織の頬を打った音だった。
ここは、速水の伊豆の別荘。
紫織は、声も出なかった。

あの優しい真澄が!私の頬をぶつなんて!親にも打たれた事がないのに!

「なんて事をしてくれたんだ。これで、あの子が試演に失敗したら許さんぞ!」

速水の罵声が飛んだ。


紫織は速水が密かに持っていた北島マヤのアルバムを伊豆の別荘から盗み出し、びりびりに引裂き、「あなたの演技に失望しました。」というメッセージと共に紫のバラをつけてマヤに送り返したのだ。
速水は聖からその連絡を受けた時、「そんな、馬鹿な」と口に出して言っていた。
それから、アルバムの有無を確かめる為、急遽伊豆の別荘にやって来たのだった。
そこに、紫織が現れた。きっと、あなたが来ると思っていましたわと言いながら。


「あ、あなたがいけないのですわ。私の婚約者なのに、他の女を心に住まわせて。」

「あなたの誤解だ。」

「あなたは北島マヤを愛しているんです。」

「違う!」

「あんな女の事は忘れてください。私だけのものになって!」

「あなたの誤解だと言っている。何故、俺の言葉を聞かない!」

「あ、あなたには、女の心がわからないんです。」

真澄は泣いている紫織を見ていた。この女の口を塞がなければならない。
真澄は、コーヒーに催眠剤をいれると穏やかに紫織に話しかけた。

「さあ、これを飲んで。落ち着きますよ。」

紫織は急に優しくなった真澄に驚いてコーヒーを受け取った。

「さあ、飲んで。」

紫織は一口、すすった。暖かい飲み物が、紫織の高ぶった心を落ち着かせた。

「真澄様、どうか、お願いです。北島マヤの事は忘れて下さい。愛しているんです。」

そういって、紫織は、残りのコーヒーを飲んだ。
真澄は何も言わなかった。そのかわり、煙草に火をつけた。

「紫織さん、あなたは梅の谷で『紅天女』をみましたが、どう思いました?」

いきなり、話題が変わって紫織は驚いた。

「どうって、素晴らしい舞台でしたわ。」

「梅の谷という天然の舞台、月影千草の演技、語りの素晴らしさ、どれをとっても素晴らしかった。
 だが、あれを、東京の劇場でやったらどうなると思います。
 梅の谷では少人数で間近に見たが、東京では違う。
 大劇場では、細かい仕草や表情は見えづらい。
 チケットもちょっといい席に座ろうとすると1万、2万する。
 高い金を払ってでも演劇を見に来させるには仕掛けが必要なんだ。
 それには、話題を作ってイベントに参加したという充足感を与えてやる必要がある。
 演劇界幻の名作の復活。
 自分達が選んだ女優が只一人の紅天女なるという話題性。
 そういった舞台とは別の魅力が人々を劇場へと向かわせるのだ。
 姫川亜弓と競うライバルがお粗末では、興行そのものが失敗する可能性がある。
 本当になんて事をしてくれたんだ。」

「では、では、あなたは、北島マヤを援助してきたのは、興行を成功させる為だとおっしゃるの。」

「もちろん、そうですよ。
 月影千草がマヤを後継者の一人に決めた時から俺はずっと本公演を成功させるプランを練ってきたんだ。
 7年だぞ。それを、今になって、婚約者のあなたから裏切られるとは。」

「う、うそよ。あなたは、北島マヤを愛しているんだわ。それを誤摩化す為にそんな事を言っているのよ。」

「何故、俺の話を信じない。俺を愛しているのでしょう。
 俺の言葉を信じていればいいものを、、、。
 で、もし、俺がマヤを愛しているとしたらどうするんです。」

「忘れて下さい。もう、決して北島マヤに紫のバラを送らないと約束してください。」

「どうしても、俺が、マヤを愛している事にしたいようだな。」

そう言って、速水は時計を見た。紫織がコーヒーを飲んでから30分が経過していた。
紫織は急に眠気を感じた。ぼんやりとした意識の隅で、真澄が何か言っているのが聞こえた。

「紫織さん、大丈夫ですか?いつもの発作ですね。」

やがて、薬が聞いて来たのだろう、紫織は眠ってしまった。

眠っている紫織を横目でみながら速水は、聖に電話をした。
「俺だ。例のPチームを伊豆まで至急、寄越してくれ。」
聖は、一瞬、絶句したが、すぐに
「承知しました。」と返事をした。


速水は、紫織が発作を起こした事、今夜は伊豆の別荘に泊める事を鷹宮邸に連絡した。
紫織の運転手にも、同じように、紫織が発作を起こしたので別荘に泊める事を別荘番から伝えさせた。
紫織の運転手は、それを聞くと明日迎えに来ましょうか?と言ったが、速水が送って行くと伝えさせると帰って行った。

深夜、別荘番も自宅に戻った頃、Pチームが到着した。

速水は何も言わずに、紫織の方へ顎をしゃくった。
チームもまた、何も言わずに仕事を開始した。



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