狼の夏    連載第5回 




 鷹宮紫織は、速水と婚約を解消する事にした。

(あんな恐ろしい男と一緒に暮らせない。)

あの写真を見せられた時、紫織の速水に対する想いは一遍で冷めてしまったのだった。

(私の愛した優しい真澄様は、一体どこにいってしまったの?
 あれが、本当の真澄様なの! 信じられない!)

紫織は、静かに泣いていた。

(紫のばら、、、。
 それが、あなたの一番優しい部分だったのね。
 私には決して捧げられる事のない、、、。
 それを私は踏みにじってしまった。)

紫織は、涙をふくと、

(でも、これでよかったのだわ。
 結婚する前に、真澄様の本性がわかって、、、。
 婚約を解消しよう。
 あんな恐ろしい男とは暮らせない!
 速水の子供を生めですって! 嫌よ!
 あの男に抱かれる位だったら、死んだ方がましよ。)

紫織は、速水に手紙を書く事にした。


  真澄様
   婚約を解消させて下さい。
   私より仕事を優先する方とは結婚出来ませんと、父や祖父にそう申します。
   あなたのお仕事の邪魔は決してしませんから、どうか、私をあなたから解放してください。
   お願いします。             紫織


紫織は、看護師の泉に、その手紙を速水に渡してくれるよう頼んだ。
手紙を受け取った速水は喜んだが表面上は、婚約を解消されて不本意であるというポーズを取った。
紫織と会って、話し合おうとしたが、紫織は頑として会おうとしなかった。

鷹宮翁は、紫織の突然の心変りに驚いた。
だが、紫織が、

「だって、あの方、紫織より仕事の方が大事なんですのよ。
 それに、仕事の為にあちこちの会社を潰してらして、
 今回もどこぞの芸能社から脅迫されて、あんなボディガードが四六時中私のそばにいるようになったんですもの。
 結婚したら、もっと、ひどい事になりそうで。
 紫織はもっと穏やかな生活が出来る方と結婚したいんです。」

と言うと、鷹宮翁も納得し、かわいい孫娘に危害が及んではいけないと、紫織の我が儘を許す事にした。紫織の両親も、家の中にまでボディガードがついてくる異常事態に嫌気がさしていた所だったので、娘の我が儘を聞く事にした。鷹宮側は、婚約破談後も大都との業務提携を続ける事にすれば速水もごねることはあるまいと思ったし、また、その通りだった。
 実際、婚約破談によるビジネスへの影響は全くなかった。
 血族による会社の運営などという前時代的経営では、会社は生き残れない時代になっていた。
 速水英介だけが、今回の破談に反対していたが、仲人から、家の中までボディガードに保護されなければならない生活は到底受け入れられないといわれ、仕方なく承知したのだった。
 自分達にとっては、耐えられる事でも、深窓の令嬢には容認出来ない事態だという事にようやく速水英介も納得したのだった。
 英介は真澄に言った。

「また、儂がいい所のお嬢さんを探してやるからな。」

「いえ、お義父さん、しばらくは、見合いの話は来ないでしょう。家の中までボディガードに守られなければならない生活は普通の人では、無理でしょうから。
 それに、『紅天女』を上演するまでは結婚の事でわずらわされたくありません。」

「紫織さんの事が心配だったのはわかるが、ボディガードをそこまでつける必要があったのか?」

「あの脅迫は、僕個人に来たものだったのですよ。人を脅迫するには、その人の恋人や家族を襲うぞと脅すのが一番効きますからね。僕としては、鷹宮のご家族に、こんなに紫織さんを大事にしているんだという事をアピールしたかったのですが、裏目に出てしまいました。
 ただ、鷹宮側が気を使ってくれて業務提携は大都に有利に運びそうです。
 紫織さんとの婚約も無駄ではなかったですね。」

英介は、婚約破談すらビジネスの武器にしてしまう真澄に、舌をまいた。
そして、やはりこの男を後継者にして正解だったと思ったのだった。
婚約破談に伴い真澄は、紫織につけていた看護師とボディガードを引き上げさせたが、ばあやだけは、しばらく紫織から引き離しておいた。その上で、紫織への監視は引き続きつづけた。
婚約破談が成立すると紫織は、速水に一度だけ電話をかけた。

「写真を返して下さい。お願いです。」と紫織が言うと

「紫織さん、婚約を解消しても写真はあなたの元にもどらないと言ったでしょう。
 これは、保険の為にとっておきます。
 そうですね、試演と本公演が終わって、あなたに問題がないとわかったら、こちらで処分しましょう。
 俺は、約束は守る男ですからね。
 その点は信用して下さっていいですよ。」

「本当に、本当に処分してくださる?」

「ええ、しておきますよ。」

速水がそういうのを聞くと、紫織はほっとして電話を切った。

速水が紫織に見せた写真は、実は、よく出来た合成写真だったのだ。
Pチームというのはフォトグラフチームの略称で、様々な写真を合成するチームだった。
よく調べれば、合成写真とわかるので、仮に訴えられても、悪質ないたずら程度で済む写真なのだ。
だが、もしかしたら実際に写真を取られたかもしれないという状況をうまくつくれば、相手を術中にはめるのはたやすい。
そして、紫織を罠にはめるのは赤子の手をひねるよりたやすい事だった。



 速水と紫織との婚約解消の話が進む一方で、「紅天女」の上演権についても進展があった。
上演権は月影千草に何かあった場合、北島マヤに譲るが、姫川亜弓が失明せず女優を続けて行く事が出きた場合、再度、2人に競わせて後継者を決めるものとした。試演の日程に、変更はなく、小野寺組は、姫川亜弓の代役をたてて試演を行う事になった。

姫川亜弓の目の手術は成功。亜弓は試演の2週間前には稽古場に復帰できる見通しだった。
ただ、実際に試演に亜弓が出演できるかどうかは、現段階ではわからない状態だった。

マヤも紫のバラの人からの絶縁状が、どうやら、近親者からのものだろうと言う黒沼の話に納得し、自身も速水にあい、気持ちを落ち着ける事ができたので、稽古に没頭していた。



速水は、あの告白のあった翌日、早速、マヤに連絡を取りたかったが出来なかった。
紫織との婚約破談、鷹宮との業務提携の見直し、「紅天女」の上演権の話など、通常の業務をこなしながら、そういった事柄もこなさねばならず、仕事は深夜におよび、なかなかマヤに連絡ができなかった。
やっと、連絡できたのは、あの告白の日から2週間が過ぎていた。
紫織との破談が成立し、マヤが喜んでくれると思った速水はマヤに電話をした。
アパートに電話をすると、大家がマヤを呼んでくれた。
電話越しにマヤが階段を降りてくる足音が聞こえた。
速水は、年甲斐もなくどきどきした。
初めて恋人同士としてマヤと話をする事が嬉しくてたまらなかった。

「もしもし、北島です。」マヤの元気な声が聞こえた。

「マヤ、速水だが。」

「速水さん。お久しぶりです。先日はご馳走していただいてありがとうございました。
 私、酔いつぶれちゃって、ご迷惑をおかけしてすいませんでした。麗から聞いてびっくりして。
 まさか、アパートまで送っていただいていたなんて。」

速水は、マヤの言葉に漠然と違和感を感じた。まさかと思って

「マヤ、アパートで話した事、覚えているか?」と聞くと

「えっ、私何か、言いました?
 すいません、私、お食事した所までは覚えているんですが、、、。」

「、、、。」速水は絶句した。

「えっと、もしもし、速水さん。」

「マヤ、また、連絡する。」

速水はショックで電話を切るしかなかった。

(あの天然娘。告白を総て忘れているなんて、、、。
 俺だって、必死になって告白したのに、あんまりだ。
 、、、。
 まあ、いい。
 あれだけ、酒を飲まなければ言えなかったんだろう。
 さて、このお灸をどうすえてやろう。)

そう思うと、速水は急に笑いが、込み上げてきた。
速水は、一人社長室で笑い出していた。
改めて思った。
マヤが俺を愛してくれていると。
これ以上の幸福があるだろうかと。
自分が愛した女性が同じように自分を愛してくれる。
なんという奇跡なんだろう。
そして、マヤは、俺がマヤを愛している事を知らないんだ。
マヤの気持ちを俺が知っている事も。
マヤが紫のバラの人の正体を知っている事を、俺が知っているとは思ってないんだ。
速水は、安心するといたずら心がむくむくと沸いてくるのがわかった。

速水真澄、32歳。長年思い続けた少女と互いに告白したにもかかわらず、それを総て忘れられた男。
そして、少年の心を持った優しい狼。
真澄の輝くような夏は、今、始まったばかりだった。



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