金魚の浴衣 前編



 あたしは、桜小路クンに誘われて夏祭りに行った。
落ち込んでいる私を慰めてくれているのだ。桜小路クンの気持ちは痛いほどわかった。
落ち込んでいる理由を聞かない桜小路クン。
ありがとう。
あたしは心の中で手を合わせる。
あたしが落ち込んでいる理由。
「お粗末なライバル」
亜弓さんと比較された。
わかっていたのに……。あたしなんか、あたしなんか、亜弓さんにかなうわけないのに。
速水さん、紫のバラの人!
紫のバラを贈って励ましてくれても、決してあたしと会ってはくれない。歩道橋でずっと待ってたのに……。
速水さん……。
あたしはまた、涙が溢れそうになった。

「マヤちゃん、大丈夫?」

「あ、ごめんなさい、桜小路クン。あたしは大丈夫……」

あたしは、溢れそうな涙を目をしばたいて誤摩化した。
桜小路クン、今日は浴衣だ。あたしも浴衣を着た。桜小路クンはあたしの浴衣姿を可愛いと言ってくれた。
あたしは、何の為に浴衣を着たのだろう。
桜小路クンはいい人だ。でも、それだけなのだ。速水さんへの気持ちとは違う。それなのに、何故、あたしは浴衣を着たのだろう。これでは、桜小路クンがあたしを誤解しても仕方がない。あたしは芝居で着物を着る。阿古夜の装束を身につける。今更、あたしの浴衣姿に心を動かされる桜小路クンなわけないとどこか、高をくくっていた。
だけど、すっかり誤解された。あたしが、桜小路クンの為に浴衣を着て来たと思ったようだ。
あたしはただ、夏祭りだから。だから、浴衣を着たかった。ただ、それだけ。
子供の頃、母さんと行った夏祭り……。楽しかったな。わたあめを買って貰った。浴衣は、母さんのお古だったけ。母さんが仕立て直してくれた。あの浴衣、どうなったんだろう。母さんの遺品にはなかったな。きっと、かあさん、捨てちゃったんだろうな。あたしが家出したから……。

「マヤちゃん、向うで盆踊りをやってるよ。見に行こう」

あたしは、母さんの思い出を振り切った。

「うん、桜小路クン」

あたし達は人混みをかき分けて歩いた。都会の祭りは人が多い。盆踊りの会場も人混みのせいで湿度と温度が高い。汗が吹き出て来る。浴衣の方が涼しいかと思っていたけど、ちっとも涼しくない。この浴衣は、アパートの大家さんから頂いた。大家さんの娘さんがお嫁に行っていらなくなったのだそうだ。娘さんの背はあたしより高くて、浴衣の丈がちょっとだけ長い。おはしよりで調整したけど……。おはしよりがもこもこしてしまった。柄は金魚。あたしが着るとどうしても子供っぽく見えてしまう。それでも、夏祭りだ。暑くても浴衣を着て来てよかったと思う。

「ほら、マヤちゃん、踊ろう」

桜小路クンが盆踊りの輪に入る。あたしは、一緒になって踊った。

盆踊りは9時までだ。
あたしと桜小路クンは最後まで踊った。
帰りの道は凄く込んでいた。あたしは桜小路クンの後ろをついて歩いた。だけど、どこをどう間違えたのか、祭りの会場を出たら、前を歩いていた筈の、桜小路クンだとおもっていた浴衣姿の男の人はよく似た別の人だった。あたしは、会場の出口できょろきょろと辺を見回した。きっと桜小路クンも探している。あたしは人混みを避けて歩道の道路際に立った。あっと思った。誰かに押された。あたしの体は宙にういて、道路に投げ出されそうになった。あたしは、腕を振り回して必死にバランスを取った。後に倒れそうなったあたしの体。

「あぶない!」

あたしは誰かに背中を支えられていた。

「こんな所で何をしている」

怒ったその声。深く豊かな声。その声の主は……。

「速水さん!」

あたしは、胸がどきどきした。どうしよう! 速水さんとこんな所で会えるなんて!

「一人か?」

「あの、いいえ、あの、桜小路クンと一緒だったんです。でも、はぐれちゃって……」

「そうか……」

速水さんが、じろじろあたしを見ている。

「その浴衣、かわいいな」

「は? あの、えーっと、ありがとうございます」

「豆だぬきが金魚の浴衣を着る。うん、実に似合っている」

「マ、マメダヌキって!」

速水さんがくすくす笑っている。あたしはかっとした。顔が火照る! 絶対真っ赤だ!

「速水さん、一体、ここで何をしているんです!」

「君と話している。ところで、君たちは携帯を持ってないのか?」

「え?」

「いや、だから、桜小路とはぐれたなら携帯で連絡をとればいいだろう」

「あの、それが、浴衣だから、桜小路クン、携帯入れる場所がないからって置いて来たって……」

「……、そうか……、君は?」

「あたしは、ここに……」

あたしは、帯に挟んだ携帯を見せた。

「だったら、留守電にはぐれたから、一人で帰ったと入れておけばいい」

「……、そうですね。そうします」

「……さ、家まで送ろう」

「いえ、いいです。速水さん、何か用事があったんでしょう」

「何故、そう思う」

「だって、速水さんが一人でお祭りに来るわけない」

速水さんは少し眉を曇らせた。
あ、しまった、違う、そんなつもりじゃない。あたし、またこの人を傷つけた……。
速水さんが小さなため息をついた。

「……、今、紫織さんを送った帰りだ。社に寄ろうと思っていた。たまたま、この道を通ったら渋滞に巻き込まれた。君を見かけたから、そこに車を止めて来たら、君がこけそうになっていた。さ、送ろう。車に乗りなさい。あまり長く停めておけない」

あたしは速水さんに促されるまま、車に乗った。
車の中はクーラーが効いていて快適だった。だけど……。
速水さんが運転手にあたしの住所を言った。

「あ、いいです、ここからだと大都芸能の方が近いから、どうか、速水さん、お仕事に行って下さい」

「いや、仕事はやめだ。君を送ったら、俺も帰るとしよう」

祭りのせいで渋滞していた道路は少しづつ流れ始めていた。あたしは、窓の外に桜小路クンらしき人影を見たように思った。けど、もう、桜小路クンなんてどうでも良かった。車の中に残る、紫織さんの残り香に悲しくなったけど、それもどうでも良かった。
速水さんに支えられた手の跡が熱い。夏だから暑いの。体が熱いわけじゃない。
速水さんの香り。煙草と男の人の香り。アパートに帰り着くまでのほんの少しの時間。

「稽古はどうだ?」

「え、あの、はい……」

「週刊誌に叩かれていたな……」

「あんなの、平気です!」

速水さんがあたしを振り返った。わしわしとあたしの頭を撫でる。

「それでこそ、チビちゃんだ」

速水さんが嬉しそうに笑う。
どうして? 何故? そんなに嬉しそうにするの?

「もう、またからかう! あたし、チビちゃんじゃありません。あたしは大人です!」

「くくく」

速水さんはあたしをじっと見た。笑いを含んだ目元。でも、何か考えている。

「な、何か……」

速水さんは、運転手さんに行き先を告げた。アパートではなく銀座の料亭へ。

「え、あの、どこへ?」

「大人だと言ったな。君と飲みたくなった。大人なんだろう。酒くらい飲めるだろう」

「そりゃあ、飲めますけど……、どうして?」

「俺だって、たまには気のおけないチビちゃんと酒くらい飲みたいさ。それとも、子供は寝る時間か?」

「う! つ、付き合いますよ。お酒くらい」

あたしは、少し、どきどきして、そして、そして……、とっても嬉しかった。






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