金魚の浴衣 後編
ふと目を覚ますと、見知らぬ天井が見える。あたしは布団の上に寝かされているようだ。薄暗い照明。クーラーの風がわずかにあたる。それでもあたしは暑くて、汗がうなじを伝っている。
あたしは、はっとした。あわてて飛び起きる。浴衣の裾が乱れた。急いで直す。
見回すと、速水さんの横顔が見えた。隣の和室で、一人、酒を飲んでいる。
「あ、速水さん、ごめんなさい、あたし、寝ちゃって……」
「気にするな。疲れていたんだろう」
あたしは照れくさかった。速水さんとお酒を飲んだのは覚えている。だけど……。なんとなく調子に乗って、何杯か杯を煽ったら、後の記憶がない。あたしは、何か言わなきゃと思った。手に触った布団がなんだかとっても気持ちいい。
「……このお布団、ふかふか……」
「ははは、そういう感想を聞いたのは初めてだ」
「え? 他の人もここで寝たんですか?」
速水さんが、くっと笑った。
「あの、あたし、変な事言いました?」
速水さんは何も言わない、少し酔った目をしてあたしを見ている。目元がものすごおおおーーーく、セクシーだ。いや、違う、あたしは何を考えているんだろう。あたしは酔いと照れで馬鹿な事を口走っていた。
「……、速水さんもこのお布団で寝たんですか?」
「くくく、ああ、あるな」
え? だれと? 誰とーー? 聞きたい!! でも、聞けない!
ああ、もういい、後で後悔するより、えい!
「あの……、一人……、でですか?」
「何故、そんな事を聞く?」
「え? いえ、その……、別に」
「誰かと一緒に寝たと思ったか?」
あたしは、かーっと顔が火照るのがわかった。速水さんがいじわるそうに続ける。
「俺がどこかの女と組んず解れつしたと思ったか?」
あたしは何も言えなかった。目の前に速水さんの、は、はだかと、あ、イヤ!
「くっくっくっく、君をからかうのは楽しいな、すぐに赤くなる!」
「も、もう、からかわないで下さいよ……」
あたしは質問を飲み込んだ。速水さんは、「俺も男だからな」って社務所で言ってた。女の人とお付き合いがあってもぜんぜんおかしくない。あたしはいつのまにか俯いて浴衣の袖を引っ張っていた。
「一人だ、一人で寝た。俺だって酔いつぶれる時はある」
あたしはぱっと顔を上げた。きっと、ほっとした顔をしていたんだと思う。
「ふ、ふーん。あたしはまた、紫織さんかと……」
「紫織さん? 紫織さんは結婚前に婚約者といえど、男に肌を許すような女性ではない。彼女はそんなはしたない女性ではないんだ。彼女は聡明で優しい素晴らしい女(ひと)だ……、この俺が結婚相手に選んだ女だぞ、完璧な女性に決まっている」
「つまり、紫織さんを結婚相手に選んだのは、完璧だからですか?」
「そうだ。結婚相手として完璧だからだ」
あたしは黙った。そんなのおかしい。それに、婚約披露パーティの時、優しそうな目で紫織さんを見ていた。あれは、あの表情は、条件だけで紫織さんを選んだのではないと、語っていた。
「嘘!」
「うそ?」
「うそです! そんなの! 速水さんは、速水さんは、紫織さんを愛してるんです。だから、結婚するんだから!」
あたしの勢いに速水さんが引いた。目が点になったような気がする。
「……何をむきになっている」
「べ、別にむきになんて……」
あたしは、卓をはさんで速水さんの前に座り直した。あたしは、目の前にあったコップの水を飲んだ。いや、水だと思ったら、またお酒だった。ごほっごほっ! むせた。
「何をやってる! ほら、水だ!」
速水さんが、あたしに水を出してくれた。今度は正真正銘お水。あたしは急いで飲んだけど、でも……、また、酔いが回ってきた。そしたら、急に……、涙が溢れた。あたしは涙がしたたるのを押さえられなかった。ぽたぽたと涙が落ちる。速水さんがびっくりした顔をしてあたしを見てる。
「何を泣いてる!」
「なんだっていいじゃないですか! 速水さんは、速水さんは、愛している人と結婚して幸せになるんですよ。条件だけで結婚なんて言わないで下さいよ。そんな、不幸な結婚、あたしは嫌です」
「おかしな子だな」
速水さんがハンカチを出してくれた。でも、あたしは首を振って断った。浴衣の袖で涙をぬぐう。それでも、涙が止らない。
「君は酔ってる。泣き上戸だとは思わなかったな」
速水さんが、くすくす笑う。
「酔ってなんかいません!」
「いや、酔ってる。酔ってなければ、俺の不幸な結婚を嘆いたりしない」
「不幸な結婚! やっぱり、速水さんも不幸だって思ってるんだ」
速水さんはしまったという顔をした。端整な眉をしかめる。
「……、俺も酔ってる。酔ってるだけさ。何と言っても完璧な女性を妻にするんだ。不幸な訳が無い。しかも、その完璧な女性が俺を愛してくれている」
「違います、それ! 好きな人と結婚するんですよ、結婚は!」
「紫織さんは俺を好きだ。少なくとも紫織さんは幸福だな。俺は幸福とは無縁の男だ、だからこれでいい」
「何言ってるんですか! 好きな者同士で結婚するんですよ。そうじゃないと、紫織さんだって幸福じゃない」
あたしは、酒のせいなのか、だんだん気が高ぶって、いつのまにか、卓を回って速水さんに詰め寄っていた。
「あんなに、あんなに幸せそうな笑顔をしてたじゃないですか! 『ぼくの未来の花嫁』ってあたしに嬉しそうに紹介したくせに!!!」
あたしは、速水さんの胸をぽかぽかとこぶしで叩いた。
「あんなに、幸せそうで、あんなに優しそうな速水さん、あたし、見たことない!」
速水さんがあたしの両手を掴んだ。
「何を言ってる? 自分が何を言ってるかわかっているのか、俺がどんな結婚をしようと、俺の勝手だろうが! 何故、俺が君から攻められなきゃいけない。俺がどんな顔をしようと君には関係ないだろう!」
「な、ないけど! でも、ある! あるんだから!!!」
あたしは、速水さんが掴んだ腕を振りほどこうとした。でも、速水さんは離してくれない。熱い大きな手。この手は、あたしの物じゃない。紫織さんのだ。あたしは……。
あたしは激しく泣き出していた。
「君は俺を嫌ってるんだろう! 憎んでいるんだろう! 違うか? 大っ嫌いな男が誰と結婚して不幸になろうが、どうでもいいじゃないか!」
涙の向うに見えた速水さんの……、切ない瞳。
「違う! 憎んでなんかない! 嫌ってない! 不幸な結婚なんていや! 速水さんが不幸になるなんて! そんなのいや! いや! いや! いやあああ、あ、あ」
あたしは、泣きじゃくって、泣いて、泣いて! 泣いて、叫んで!
あ! 速水さんが、速水さんが!!!
あたしの唇を!
塞いだ……。
これって、もしかしてキス? あたしが、速水さんと、キス?
ウソ! 信じられない!
何がなんだかわからない内に速水さんが唇を離した。
速水さんはあたしをそのまま、ぎゅーって抱き締めて、そして……耳元で囁いた。
「君は俺を……、嫌ってない……のか……?」
あたしはうなづいた。速水さんがとっても驚いた顔をしてあたしの目を覗き込んだ。速水さんの鳶色の瞳。驚きと戸惑いで揺れている。
「本当に?」
あたしはまた、うなづく。
速水さんが目を伏せた。
「……こんな事をしてすまなかった……」
あたしは首を横に振った。驚いた顔で、速水さんが瞳を上げた。
「……しても……、良かったのか?」
あたしは小さくうなづいた。
速水さんが力強くあたしを抱きすくめた。
「マヤ!」
速水さんの手があたしの背中や髪を愛しげに撫でてくれる。あたしも速水さんの背中をそっと撫でた。
あたしは言えない、好きって言えない。速水さんには紫織さんがいる。
自然と涙が流れた。
速水さんの豊な切ない声……。
「もう……、泣かないでくれ、不幸な結婚はしないと約束する」
「速水さん……」
あたしは、速水さんを見上げた。
「す、好きな人と結婚しますか?」
「ああ、好きな人と結婚する。出来なかったら、結婚はしない」
「幸せになってくれますか?」
速水さんは、あたしをもう一度、抱き締めた。
「ああ、幸せになる。どんな障害があっても、必ず、幸せになる」
あたしは何も言えなかった。ただ、速水さんの肩に顔を埋めた。
速水さんが微かに笑いを含んだ声で言った。
「俺は知らなかった、幸せが金魚の浴衣を着てるとはな……」
終
あとがき
マスマヤ情景シリーズ第2弾です。情景シリーズというより料亭シリーズになりそうですね。^^
お気に召していただけたら嬉しいです。
読者の皆様へ感謝をこめて!
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