時計樹に飛び込んで 連載第1回
「速水さん、じっとしてて……」
マヤは真澄の口元に手を延ばした。
付き合い始めて数週間。忙しい二人はデートもままならない。今日はランチデートだった。
大都芸能近くの公園。ベンチに座って、二人でランチを食べる。何も公園でなくても良さそうなのだが、天気のいい5月。美しい緑を見ながら二人でぱくつくサンドイッチは美味だった。
食べ終わったマヤが真澄を見上げると、ゆで卵のかけらが真澄の口元についている。マヤは何の気なしに真澄の口元に手を延ばすと、指先でかけらを拭った。その指先をマヤは銜えてなめた。
真澄はマヤの仕草に顔が赤くなるのがわかった。ナプキンでごしごしと口元をふく。真澄は照れ隠しに、やや、ぶっきらぼうに言った。
「マンションの一人暮らしはどうだ? 何か不自由する事はないか?」
「大丈夫ですよ、そんなに心配しなくても……、速水さんは心配し過ぎなんですよ!」
真澄は恋人の言い分に、心配して何が悪いと思ったが、口には出さなかった。
(……確かに、俺は心配し過ぎなのかもしれない。出来る事なら君を部屋に閉じ込めて誰の目にも触れさせたくない。女優北島マヤを応援する気持ちはあるが、それでも、俺一人の物にしてしまいたい。……男というのは身勝手な物だな)
「ね、速水さん、それより相談があるんです……」
「相談?」
二人が座っているベンチの近くに鈴懸の木があった。今、新緑の季節を迎え、鈴懸の木もまた、美しい緑の葉を茂らせている。五月晴れの元、鈴懸の木は二人の上に濃い陰を落としていた。
「あのね、速水さんから貰った紫のバラ、さやかが花びらをポプリにしてくれてたんです。そしたら、さやかの知り合いで香水を作ってくれる人がいて……。
それで、花びらから香水が作れるっていうんです。それで、作ってもらったんです。これ……」
マヤはバッグから小さなプラスチックの瓶を取り出した。高さ3cm、直径1cm程の透明な小瓶。
「付き合ってる人がいるんだったら、相手に聞いてからつけた方がいいって! 香りは好き嫌いがあるからって! この香り、速水さんはどう思います?」
真澄はマヤから小瓶を受け取ると日にかざして見た。僅かに紫の色がついている。真澄が蓋を開けようとするとマヤが言った。
「速水さん、あたしの事、どう思ってます?」
真澄は蓋をあける手をとめて、マヤを見た。
「何故、そんな事を聞く?」
真澄は照れくさいので、香水の瓶に意識を集中した。蓋を開ける。
バラの香りがふわりと立ち上った。
「あたしの事、どう思ってます?」
真澄は一瞬目眩を覚えた。あわてて、香水の瓶に蓋をした。が、遅かった。吐き気ともなんとも言えない衝動が真澄を襲った。よくわからない衝動のままに言っていた。
「マヤ、俺は君を誰よりも深く愛している。俺の命、その物だ。……いやだ! いやなんだ! 君が……、君が男達にじろじろ見られるのが! 俺は嫌なんだ! ……君は女優だ。舞台に立ち人々の前で演技をする。それはいい。だが、舞台から降りたら……、マヤ、君は俺の物だ。君をすべての男達から見えなくしてしまいたい! 」
マヤはまじまじと真澄を見つめた。腕を延ばし真澄の頭を抱き寄せる。近くにいた人々はびっくりして二人から目をそらした。マヤは、ただただ、固く抱き締める。
「ごめんなさい……。 ごめんなさい、速水さん……。この香水、自白剤が入ってるの。これを吸う直前に受けた質問に本音で答えてしまうの。あたし、あたし……、みんな心配してくれて……。あたしの事、速水さんが、もてあそんでるんだって……。あたし、ちっとも美人じゃないし、紅天女の上演権持ってるし、みんな、速水さんがあたしに本気じゃないって! そんな事ないって言っても、みんな信じてくれなくて、それで、この香水を渡されたの! ごめんなさい、ごめんなさい、速水さん!」
真澄はマヤの背中に手を回した。ゆっくりと優しく背中を撫でた。それから、マヤを離すと、真澄はベンチから立ち上がり後ろを振り返った。後ろの茂みに向って大声で言った。
「君たち、出て来たまえ!」
茂みの中からごそごそと、青木麗と水無月さやかが姿を現した。バツが悪そうにしている。
「速水さん! どうしてわかったの?」
マヤがびっくりして速水を見上げた。
「あのな、マヤ、君にだけ本音を言っても仕方ないだろう。第3者が聞いてなかったら、意味がないだろうが」
真澄は麗とさやかに向って言った。
「これで信じて貰えるか。俺がマヤに本気だと!」
青木麗が口を開いた。
「申し訳ないです、速水社長。業界で冷血漢で通っているあなたが、鷹宮家との婚約を解消してまでマヤにご執心だなんて、とても信じられなくて!」
さやかも口を添える。
「マヤは私達にとって、大切な仲間なんです。幸せになって貰いたいんです。試してごめんなさい」
二人は深々と頭を下げた。速水はしばらく二人を見ていた。麗もさやかもどんな怒りの鉄拳が下されるかひやひやしながら待っていたが、冷静な速水の声が降って来た。
「……ところで、君たちに聞きたい。この香水は誰が作ったんだ?」
青木麗と水無月さやかは、顔を見合わせた。
「誰って、さやかの知り合いの香月由香里って言う人です。名前に香りって言う字が二つも入っているくらい、香水の好きな人で、香水の成分を研究していく内に、本音をいう自白剤のような成分に行き当たったんだそうです。ただ、それには大量の紫のバラの花びらが必要らしくて……。今回はちょうど紫のバラの花びらがたくさんあったんで……」
速水は香水の瓶の中身をもう一度見た。
「……、この香水にいくら使った?」
「え? えーっと、あの、紫のバラの花びらがたくさんあったから、バラを購入する費用や乾燥させる手間がなかったから破格の安値だったんです。普段だったら2〜30倍するそうです」
「それで、幾ら使ったんだ?」
さやかが仕方なさそうに両手を広げて、速水の前にこれだけというジェスチャーをした。
「十万! こんな物にか?」
「そんな事言いますけど、滅多に作ってもらえないんですよ。それに、私達、マヤの幸せの為だったら、それくらい惜しくありません! 大体、速水社長の日頃の行いが悪いから信じられないんじゃありませんか!」
水無月さやかが必死に言いつのる。
速水は頭を抱えたくなった。ため息を一つ付くと、速水はスーツの内ポケットから財布を出し、二人に金を渡した。
「さあ、受け取り給え。これは俺が預かっとく。こんな危険な薬品、二度と使うんじゃないぞ!」
速水に叱られた青木麗と水無月さやかはしゅんとなった。速水は言葉を続けた。
「君たちはマヤを仲間だと言ったな。何故、仲間の言った事を信じない。マヤが俺を信じてるんだ。それで十分じゃないのか?」
「す、すいませんでした!」
二人は異口同音に謝罪の言葉を口にするともう一度頭を下げた。
「さて、俺はマヤともう少しデートを楽しみたい。君達は席を外してくれないか?」
青木麗が、苦笑いを浮かべながら、後ずさった。水無月さやかも続く。
「そ、そりゃあもう……! ははは、……マヤ、あとでね!」
「良かったね、マヤ、速水社長が本気で! じゃあね!」
二人は脱兎のごとく走り去った。二人が行ってしまうと、速水はマヤに向き直った。とたんにマヤが叫んだ。
「ごめんなさい、速水さん、ごめんなさい! 怒らないで!」
マヤは絶対怒られると思った。その時、速水の携帯が鳴った。速水が仕方なさそうに携帯を開く。マヤは携帯に救われる思いだった。
速水は携帯を持ったまま、マヤから2、3歩離れた。速水が携帯に出ると秘書の水城からだった。速水は秘書からの電話を弱冠不快に思ったが、ため息をついて携帯を切った。携帯を切るなり速水は言った。
「マヤ、俺は怒ってないから」
真澄がふわりと笑った。マヤの頬に喜びがさざ波のように広がった。極上の笑顔になる。
「水城君からお昼休みは終わったからすぐに社に戻れと連絡があった。残念だが、今日のデートはここまでだ。君はどうする?」
「うーん」
マヤが迷った顔をして言った。
「速水さんを大都芸能まで送りたい!」
速水が、くっと吹き出した。
「俺は幸せ者だな。かわいい恋人を持って……。君にならいくらでも本音をいえるぞ」
マヤの顔がポンと赤くなる。真澄が手を差し出した。マヤは嬉しそうに真澄の手を取る。二人は手をつないで歩いた。二人で歩く道。どこまでも二人で歩いて行こうと互いに思っていた。口に出さなくても、二人にはわかっていた。
しかし、二人はしばらくの間、離ればなれになる。
続く
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