二人    連載第5回 




 スペイン料理店「グラナダ」。
その場に居合わせた総ての人の視線を釘付けにする程、美しい女性がウェイターに案内されて個室へと歩いて行く。
女性の名前は鷹宮紫織。
鷹宮財閥の総帥のたった一人の孫娘である。
上品なドレスに身を包み、隙のない装いをした紫織。
その紫織をハンサムな婚約者がわざわざ立って出迎える。
こちらもスーツを完璧に着こなしている。
婚約者の名前は速水真澄。大都芸能の社長である。
傍目には完璧な美男美女のカップルだった。
二人が個室に入り着席すると、食事が始まった。
ウェイターが、料理の説明をするが、二人ともどこか聞いていない風である。
眼を合わす事もなく、沈黙しがちである。
最後のコーヒーになって速水は、スーツの内ポケットから封筒を取り出した。
おもむろに紫織の前に差し出す。

「そうそう、北島からこれを預かって来ました。
 あなたに返してほしいと言っていましたよ」

紫織は怪訝そうに封筒をとって中を開けた。
二つに破られた小切手が入っていた。

「こ、これは!」

和やかな雰囲気があっというまに凍り付く。

「あなたが黒沼さんに渡した小切手ですよ。
 北島に僕やあなたに近づくなと滝川に言わせたそうですね。
 そんな必要はありませんよ。
 北島はあなたに悪さをするような人間じゃありません。
 僕が保証しますよ」

「私、あの子に私達の周りをうろうろしてほしくないのですわ。
 それに、指輪はマヤさんが持っていましたわ」

「ええ、返しに来ていましたね」

「……」

「北島はバックの中にあなたの指輪を見つけ驚いて持って来てくれたんですよ。
 大切な物を無くしたあなたに早く返さなければと思って」

「でも、ドレスに……」

「あなたの方から倒れかかったんでしょう。
 あなたがそう言っていましたよ」

「ええ、そうですわ……。
 でも、真澄様が怪我をしたのはあの子を守る為ではありませんか?
 あの子がいなければ、真澄様は怪我をされませんでしたわ」

「あの子がいなくても、北斗プロは襲撃してきたでしょう。
 たまたま、あの子がいただけで、決してあの子のせいではありませんよ」

紫織はここまで来て、初めて速水の瞳の奥に何か冷たい物を感じた。

(冷たい瞳、いいえ、違うわ、無表情なのだわ。
 なんて眼をして私をご覧になるの)

「北島の事は気にしなくていいですよ。ほっといていいでしょう。
 我々に危害を加えたりしませんよ。
 それに、あの子の方から僕に会いに来る事はありませんから。
 今回だって、あなたがあの子に会いに行かなければ向うから会いに来る事もなかった。
 関わるなというなら、あなたが関わらなければいいんです。
 そうすれば、北島が我々に会いに来る事はありませんよ。
 何と言っても僕はあの子の母親の敵ですから」

「そう、そうですわね」

紫織は、速水の心を思った。

(この人の心にはいつも「紅天女」と共にマヤさんがいる。
 憎まれているのに。
 自分を憎んでいる少女を愛している。
 この人の心は本当に広いのだわ)

紫織は真澄の心の広さ、愛の深さを思った。
そして、その愛が自分にではなく、北島マヤに向いている事を改めて情けなく思った。

「ごめんなさい、真澄様、私、つまらない事をしてしまいましたわ。
 出過ぎた事して……」

「謝らなくていいですよ」

「真澄様、あの……」

紫織は食事の間中、言おうと思って言えなかった事を口に出した。

「あの……、船に乗れなくて申し訳ありませんでしたわ。
 ご一緒出来なくて……」

速水の纏っていた空気が一遍した。瞳の奥から無関心さが消え確かな意志が現れた。
だが、それも一瞬の事だった。速水は眼を伏せコーヒーを啜りながら紫織に言った。

「……紫織さん、何故あんな真似をしたんです?」

同じ穏やかな速水の声だったが、何かが変わった。
紫織は俯き逡巡した。
そして、静かに紫織は泣き出した。
泣きながら速水に訴えた。

「私、不安だったのです。あなたのお気持ちが、私には無いように思って……。
 あなたと絆を深めたかったのです。
 だって、あなたは……」

紫織は最後まで迷った。
婚約者が他の女を愛している事を自ら認めなければならない屈辱。
だが、それでも、真実を明らかにしなければ、この男をつなぎ止められない。

「あなたはマヤさんを愛しているのですもの」

紫織は一気に気持ちを吐き出していた。

「あなたのお心を私一人の物にしたかったのですわ。
 真澄様、どうか、私の気持ちをわかってください!」

速水は相変わらず無表情だった。

「紫織さん……、何故、僕が北島を愛していると思ったんです?」

紫織は涙をふきながら応える。

「マヤさんには、『紫のバラの人』という足長おじさんがいるそうですわ。
 『劇団つきかげ』のみなさんにお聞きしましたの。
 マヤさんを高校に行かせてくれたり劇場を修理してくれたりと何かとお世話をしてくれたのだと聞きましたわ。
 マヤさんはとても感謝して、その方に高校の卒業証書や舞台写真のアルバムを贈ったそうです。
 私、以前あなたの伊豆の別荘で、マヤさんの舞台写真のアルバムを見かけて、気になっていて……。
 それで、私、あなたの別荘に行って確かめたのですわ。
 そしたら、あったのです、マヤさんのアルバムと卒業証書が!
 それで、わかったのですわ。あなたがマヤさんの『紫のバラの人』だって!
 あなたが、何年もの間、マヤさんを支えていたなんて……。
 信じられなかった。信じられなかったわ!
 あんな、あんな、平凡なつまらない子に!」

紫織は唇をふるわせた。涙がこぼれる。

「それで、舞台写真を引き裂いて、紫のバラをつけて北島に送り返したのですか?」

「どうしてそれを!?」

紫織は、あっと思った。

(真澄様はマヤさんに会ったのだわ。それで、マヤさんを庇う事ばかり言うのだわ)

瞬間、紫織の心に北島マヤに対する憎悪が込み上げた。

「マヤさんに会ったのね、マヤさんが告げ口したのね!」

「いいえ、北島は僕にそんな事を言ったりしませんよ。
 ……僕の所には職業柄いろいろな噂が集まってくるんですよ。
 彼女の足長おじさんの話はこの世界では有名でね。
 何年もの間、名前を隠して北島を支えていたファンが、北島から送られたアルバムを引き裂いて送り返したなんて言うスキャンダラスな話は、僕にはすぐに届くのですよ」

「あなたのお心を私だけの物にしたかったのですわ。
 私を、私だけを愛してほしかったのです。
 ……とにかく、終わりにしていただきますわ。マヤさんへの援助は」

紫織は、ハンカチで涙をふきながら言った。
速水は相変わらず無表情に紫織を見ながら言った。

「それで、北島のバックに指輪を入れ、ジュースの上に自ら倒れかかり、僕から北島を遠ざけようとしたのですね」

「私はあなたの婚約者ですわ!」

「確かに、あなたは婚約者だ。
 ……逆に言えば、婚約者でしかない」

速水は一呼吸おいた。
そして、切り出した。

「紫織さん、婚約を解消しましょう」

「ま、真澄様!」

紫織はショックのあまり口が聞けなくなった。涙も止まる。

「な、何故です? 教えて下さい。理由を!」

「僕は今回の件で悟ったのですよ、あなたと結婚は出来ないと……。
 あなたを素晴らしい人だと思っていた。優しく聡明で美しい。
 本当にあなたほど素晴らしい女性を僕は知らない。
 その上、あなたはこんな僕を、義父の仕事を継ぐ為だけに育てられた冷血漢の僕を好きだと言ってくれた。
 あなたは婚約者として申し分のない人だった。
 ……
 僕はあなたの気持ちに早く応えようと思っていたのですよ。
 あなたを愛さなければと。
 それが……、あなたがこんなひどい人だったとは」

「ひどいのはあなたの方ではありませんか?
 好きな女性がいるのに、私と見合いをして……、プロポーズまでして!」

速水は思った。

(この人をここまで追いつめたのは自分なのだろう。
 この人には俺の本音を話しておこう。
 それが、この人への誠意だろう)

そう思った速水は話し始めた。紫織と付き合って初めて話す本音だった。

「僕は北島の母親を死に追いやったのですよ。
 彼女をスターにする為だったが、結果として彼女の母親を死に追いやる事になってしまった。
 北島は僕に、僕を一生許さないと泣きながら叫んだんだ……。
 僕は……。
 北島を諦めたのですよ。
 彼女を諦めて、あなたと見合いをした。
 あなたと幸せな結婚をしようと思っていた。
 今は忘れられなくても、あなたと一緒になればその内忘れられるだろうと……。
 あなたのような素晴らしい女性を妻にすれば、彼女を忘れられると……。
 それが、人を陥れ、嘘を付き、男をベッドに誘うような女だったとは!」

「真澄様!」

紫織は真澄に軽蔑された事を知った。
もう、元に戻らない。紫織は悲しみの内に悟った。

「婚約を解消しましょう。
 鷹宮家には、正式に婚約解消を申し入れます。
 あなたに直接言うつもりはなかった。
 後日、人を立てて婚約の解消を申し入れるつもりでした。
 ……
 そうだ、こうしましょう。
 男の僕の方から婚約解消をいうと、あなたの名誉を傷つける事になるでしょう。
 あなたの方から婚約解消を言って下さい。
 そう、北斗プロの襲撃事件がいい。
 あんな恐ろしい事件に関わるような男とは、結婚したくないと……。
 ……それとも本当の事を話しますか?
 若い女の子と、平凡きわまりない女の子と僕の愛を争って負けたと……」

紫織の頬が朱に染まる。

「真澄様!」

「……、では、僕は、これで……。さようなら、紫織さん」

速水は無表情な瞳で紫織を一瞥すると踵を返し個室を出ようとした。

「待って!」

紫織は真澄の腕を捕らえ引き留めようとした。

パシッ!

「さわるな!」

真澄は紫織の手を振り払っていた。真澄の冷たい瞳。瞳の中に一瞬浮かんだ嫌悪感。
紫織は真澄の無表情という仮面の下に溢れ出しそうな嫌悪感が抑え込まれているのを知った。
紫織は唖然として立ち尽くした。

速水真澄は鷹宮紫織をレストランの個室に一人残し立ち去った。
振り返る事はなかった。



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