ヴァリエーション 連載第5回
速水真澄は北島マヤのアパートの近くに車を止めると、マヤが帰宅するのを待っていた。
車の中で煙草を吸う速水の前を見慣れた車が通り過ぎて行った。
紫織だ。
そのまま、待っていると桜小路のバイクに乗ったマヤが帰って来た。
速水は、嫉妬と羨望の入り交じった目で桜小路とマヤを見ていた。
そして、桜小路が帰ると、入れ替わりに紫織が姿を現した。
速水は煙草を消すと、車から降りた。
マヤと紫織はアパートから少し離れた街灯の下で話している。
速水はゆっくりと二人に近づいた。
紫織の声が聞こえて来た。
「……真澄様はね、私のおじい様がとても気に入っていて、将来は、鷹通グループの総帥になさりたいとお考えなのよ。
ほほ、素晴らしいでしょう。
真澄様にこそ、相応しい未来だと思わない。そして、私は真澄様の隣に立つの。妻として」
マヤが顔をゆがめている。まるで、泣きそうな顔をしている。
速水は何故、マヤが泣きそうになるのかわからなかった。
が、マヤが紫織の話を聞きたくなさそうにしている事はわかった。
紫織が話を続ける。
「新婚旅行は世界を回るのよ、船で。クィーンエリザベスII世号に乗るの。素敵でしょ。
地中海には私の恩師がいらっしゃって、真澄様と一緒にお訪ねするの……。
真澄様は、それをとても楽しみにしてらして……。
仕事ばかりしていらしたから、私とのんびりしたいっておっしゃって……」
速水は紫織の話をおかしいと思った。
速水は、仕事を理由に新婚旅行には行けないと紫織に告げていた。
もとより、紫織を抱くつもりもない。
一体、何故、紫織はこんな嘘をつくのか?
しかも、マヤの言った通り、街灯の下に浮かぶ紫織の顔はやせこけている。
最後に紫織の顔をまともに見たのはいつだったか覚えていなかったが、こんなに痩せていなかったと思った。
真澄は二人に声をかけた。
「紫織さん、新婚旅行は中止になった筈ですが……」
鷹宮紫織は振り返った。真澄の姿に驚きを隠せない。
マヤもまた、驚いて速水を見た。
「真澄様! 何故、ここに?」
「……」
紫織は何も言わない速水にはっとした。マヤに掴み掛かる。
「私の真澄様に何か言ったのね。この泥棒猫!」
「やめなさい!」
速水が紫織の腕を掴み捻り上げた。
「い、痛い! やめて! 離して!」
「北島はあなたを心配して僕に電話をくれたんですよ。
あなたがあんまりやつれたからと言って!」
遠くで見ていたお付きの滝川が、紫織の様子に駆けつけて来る。
速水は、そのまま、紫織の腕を締め上げたまま、滝川の方に紫織を歩かせた。
「紫織さん、僕は新婚旅行には行けないといいましたよね。
仕事が忙しくて、長く休めないと。
それなのに、何故、北島に嘘をつくんです」
速水は、やって来た滝川に紫織の体を突き飛ばした。
紫織は滝川にすがって泣き出した。
紫織を受け止めた滝川が速水に訴える。
「速水様、聞いて下さい。
紫織お嬢様は、ここの所、ずっと眠れないのです。
ですが、北島様とお話した後は、それはよく眠れて……。
それで、毎晩、北島様とお話に来るようになったんです」
速水はもう一度質問を繰り返していた。
「何故、北島にありもしない嘘をつくんです?」
「嘘じゃないわ、嘘じゃない……。う、ううう……。
あなたは私の物よ。私と新婚旅行に行くのよ……、一緒に新居の家具を選ぶのよ」
紫織は泣きながら、切れ切れに言葉を紡ぎ出す。
速水は、ため息をついた。マヤの方を振り返る。
速水の疲れた顔にマヤは目を見張った。
「ちびちゃん、済まない。
試演の前に紫織さんのつまらない話に付き合わせて。
もう、来させないから」
「あの、速水さん、あたし、あたし、大丈夫です。
あたしと話して紫織さんがよく眠れるなら、あたし、お話相手になりますから」
「いや、いい、大事な舞台が真近だというのに、つまらん話に付き合わせる訳にはいかない。
彼女がこんな風になったのは俺の責任だ。
なんとかするから……。君は心配しなくていい。
アパートに戻りたまえ」
速水はマヤにそう言うと、紫織と共に紫織の車に乗った。
マヤは気になったが、自分が関わっても速水の負担が増すだけだろうと思い、アパートに戻った。
速水は車の中で紫織と二人きりになった。
滝川と運転手を外で待たせる。
「紫織さん、僕は言った筈だ。あなたを愛せないと……」
「何故? どうして? どうして……? 真澄様、あたしのどこが悪いんです?」
「では聞くが、あなたは自分の自由を奪った相手を愛せますか?」
「自由? 自由を奪うって、どう言う意味です? 私が何をしました?」
「あなたに婚約解消を言ったのに、あなたは自分の命を盾にそれを拒んだ。
僕は愛してもいない女性と生涯を共にしなければならないんだ。
あなたを憎ませないでくれ。
とにかく、これ以上、北島に近づくな。
北島に何かしたら、許さんぞ!
もし、北島に手を出したら、必ず婚約を解消してやる。何があってもだ。忘れるな!」
速水はそう言うと、車を降りた。
主人の身を案じた滝川が、とまどいながら速水に話しかける。
「あの、お嬢様とお話していただけましたか?」
「ああ、お嬢様はもう二度と北島君に会いに来る事はない。
来たいと言ってもお止めするんだ。
もし、言う事を聞かないようだったら、僕が会ってはいけないと言っていたと言いなさい。
それで、思い出す筈だ」
「あの、お嬢様は何を思い出されるのでしょう?」
「それより、君は紫織さんの世話係だろう。
一体、いつから紫織さんはあんなにやつれたんだ。
世話係のくせに気がつかなかったのか?」
「も、申し訳ありません。紫織様は子供の頃から寝込みがちで、いつもの貧血だろうと思っておりました」
「君は紫織さんに言われて黒沼さんの所に小切手を持っていったそうだな。
あんたや紫織さんが貶めた北島君が、紫織さんの体調が悪いのを一番に気がついたんだぞ。
紫織さんを心配して僕に電話して来たんだ。
人を簡単に貶めて何様のつもりだ。恥ずかしくないのか? 恥を知りなさい」
速水は滝川を叱りつけると、踵を返して自分の車へと歩いて行った。
振り返る事はなかった。
一方マヤは、速水に言われてアパートに戻ったものの、外の様子が気になって仕方がない。
窓からそっと覗いてみた。
だが、速水達のいる場所は死角になっていて見えない。
やがて、エンジンの音がして車が行ってしまったのがわかった。
マヤはあきらめて、窓辺から離れた。
そろそろ寝ようと思っていると携帯が鳴った。見ると知らない番号である。
誰だろうと思って出ると、速水だった。
「ちびちゃん?」
「速水さん!? どうして、この番号を?」
マヤはそう言いながら窓辺に寄った。速水の姿が見える。マヤは思わず駆け出していた。
速水は携帯に向って話しながらマヤのアパートを見上げていた。
「君が、昨日、会社に電話してきただろう。会社の電話に残っていた番号を控えておいたんだ。紫織さんの事だが、心配をかけてすまなかった。世話係の滝川によく言っておいたから、……ちびちゃん!……、え!」
どさっ!
二人の上空、空高く、星が一つ、二つまたたいている。
都会では地上の明りと汚れた空気で夜空の星はほとんど見えない。
が、二人は知っている。
天空に輝くばかりの星空がある事を……。
続く
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