ヴァリエーション    連載第7回 




 速水真澄は、大都芸能社長室で、煙草を吸いながら雨に沈む街を眺めていた。
先日の夜の事が思い出される。

真澄に口づけをしようとしたマヤ。
指先に残るマヤの柔らかな唇……。
真澄は思い出して、顔を赤らめた。

ーーマヤ、君が俺を愛していてくれていたとは……。

真澄は鷹宮紫織の両親に婚約解消を正式に申し入れようと思った。
頭を下げ、どんな懲罰にも耐えようと決心していた。
そんな事を考えていると、水城が慌てて入ってきた。

「社長、失礼します。今、鷹宮社長からご連絡がありまして、至急、自宅まで来てほしいそうです。
 なんでも、紫織様のご容態が大変悪いそうです」

「紫織さんが!」



速水真澄が鷹宮邸に行くと鷹宮慶一郎と紫織の母親が、応接室で待っていた。
紫織の父親が沈痛な面持ちで真澄に話し始めた。

「真澄君、今日きて貰ったのは、他でもない紫織の事なんだ。実は……」

鷹宮紫織の両親は紫織が病気である事、手術をすれば助かるかもしれないが紫織の体力を考えるとかなり難しい事、手術をしなかった場合、死に至る確立が高い事を真澄に説明した。

「真澄君、君の気持ちを聞かせてほしい。
 君としては、死ぬかもしれないとわかっている女性との結婚は躊躇するものがあるだろう。
 だが、今、婚約を解消するとなると、ますます、紫織の精神的負担が大きくなってしまう。
 紫織の好きにさせてやりたい」

真澄は衝撃を受けた。
決して想いが通じる事はないとあきらめていたマヤの気持ちがやっとわかり、紫織と婚約を解消しようと思った真澄だった。
その紫織が病でまもなく死んでしまうかもしれない。
紫織を愛していないとは言え、深く人生に関わった女性である。

「……、僕は……、すいません、紫織さんが死ぬかもしれないなんて……、今は……、何も考えられません。時間を下さい……」

そういうと真澄は、鷹宮邸を辞した。
真澄は、どうしたらいいだろうと思った。
鷹宮紫織に対して、愛情のひとかけらもなかった。むしろ、紫織の態度に怒りを覚えるようになっていた。
その人が病で死んでしまうかもしれない。
真澄は取り敢えず、義父英介と朝倉に報告する事にした。
話を聞いた二人は難しい顔をした。
鷹宮家と姻戚関係になるのは速水の家にとって願ってもない事だ。
だが、その絆も紫織が死んでは弱い物になる。死んでしまうと決まった訳ではないが、子供は望めまい。それなら、鷹宮ほどではないにしても、ビジネスに有意義な相手で健康な女性と婚姻を結び、末永く付き合えるようにした方がいいのではないかと英介と朝倉は思った。
もう一つ、仮に結婚した場合、紫織の遺産がどうなるかだった。
紫織の余命が不安定な以上、鷹宮家は紫織の個人資産を紫織の父親か母親の名義にするだろう。
或は、真澄が結婚するとした場合、鷹宮家は真澄に紫織の死後、相続を放棄する契約書にサインさせるかもしれない……。

そんな二人のやり取りを真澄は黙って聞いていた。

ーーこれでは会社の会議と変わらんな。

どうすれば速水の家、大都芸能にとってメリットがあるか、そればかり話している。
紫織さんという類い稀な女性が結婚に持つ夢や期待をかなえる事なく死んでしまうかもしれないというのに、紫織さんへの同情は微塵も感じられない。
真澄は、だんだん紫織が気の毒になっていた。
ふと、真澄は見合いした時の紫織を思い出した。豪奢な振り袖に身を包んだ暗い表情の女性。それが、紫織の第一印象だった。
事情を聞くと、体が弱く、ほとんど外に出た事がないと言う。
あの時も、真澄は紫織を気の毒に思ったのだった。
真澄が紫織を外に連れ出すようになると暗い表情が段々明るくなった。
義父英介が梅の谷で行方不明になった時は、逆に彼女に随分慰められた。
そして、マヤの言葉を思い出した。

(その……、紫織さん、すごくやつれているんです。それで、心配になって)

ーーマヤ、俺の魂の片割れ、すまない、二人で幸せになりたかった……。
 だが、俺達はいつも一緒だ……。
 どんなに離れていても魂はいつも一つだ。

速水はある決断をすると、口を開いた。

「お義父さん、朝倉、僕は婚約者として紫織さんを支えます。
 結婚は紫織さんが丈夫になってからすればいいでしょう。
 婚約者の立場であれば、遺産相続は関係ないですし、紫織さんを支えたという事で、万一紫織さんが死んでも、鷹宮側に恩を売れるでしょうから、速水の家にとっても有利でしょう」

真澄のこの言葉により、真澄と紫織の婚約はそのまま、結婚式は延期される事になった。


一方、北島マヤは速水真澄から鷹宮紫織の病状を聞かされた。
速水はマヤに婚約を解消出来なかったとは言わなかった。
マヤは速水が言わなくても速水の考えは手に取るようにわかった。
重病の紫織さんを見捨てる事など、速水に出来るわけがない事をマヤはよく知っていた。


鷹宮紫織は、自身の健康状態の悪化により結婚式が延期されたと両親から聞かされ、がっかりした。
医師からは、以前からの病状が進んでいるのでゆっくり養生しなければいけないと諭された。

「健康になれば、結婚できますよ。しばらくの辛抱です」

医師はそう言って紫織を励ました。

真澄は入院した紫織を見舞いに行った。見舞いに花を持っていったが、紫織はその花を受け取るなり真澄に投げつけた。

「何をしに来られたのです! 私を愛しているわけでもないのに!
 どうぞ、お帰りになって!
 結婚が延期になって、あなたはさぞ、嬉しいのでしょうから!」

「……紫織さん、あなたを邪険にして申し訳なかった。
 病気になったあなたをほうっておけない。
 これからは、あなたを大切にするから……」

「真澄様! 本当に?」

「ええ、本当ですよ。そうだ、あなたの言っていたデザイナーにも会いましょう。
 だから、よく養生をして早く元気にならないといけませんよ」

真澄の言葉に紫織は嬉しそうに微笑んだ。やっと、真澄の心を手に入れたと思ったのだった。

真澄は、寸暇を惜しんで紫織を見舞った。
そして、病院を出られない紫織の為に、オペラのミニコンサートを病院で開こうと思った。
病院側に許可を求め、歌手や演奏者を手配した。
ある晴れた日の午後、数人のオペラ歌手が病院に併設された小さな教会でミニコンサートを開いた。
演目は紫織の好きなオペラ「椿姫」。娼婦ヴィオレッタの悲しい運命の物語。
ミニコンサートなので、ハイライト部分だけだったが、居合わせた人々を感動させた。
最後に「椿姫」第3幕のアリアが響き渡った。
紫織はその歌声に酔いしれた。
以前から何度も聞いている「椿姫」だったが、今日聞いた「椿姫」は違った。
それは、紫織の為に、紫織を励ます為に歌われた真澄からの贈り物だった。
紫織は椿姫の主人公ヴィオレッタの運命に想いを馳せた。
愛する人の為に身を引いたヴィオレッタ。
愛し合っていながら引き裂かれる恋人達。
真澄の北島マヤへの深い愛がヴィオレッタの愛に重なった。
共に相手の幸せを願う愛だった。

或る日、紫織は看護師達が、紫織の病状について話しているのを漏れ聞いた。そして、人生の残り時間が少ない事を知った。
紫織は、ああ、それでと思った。真澄が急に優しくなった理由を察した。
紫織はふと、真澄が見舞いに置いて行った花束を眺めた。備前焼の花瓶に活けられている。
その中に紫のバラはない。

「真澄様……」

紫織は愛する人の名前を花に向って呼びかけていた。



続く     web拍手 by FC2       感想・メッセージを管理人に送る


Back  Index  Next


inserted by FC2 system