ヴァリエーション 連載第8回
試演の前日、速水は仕事を終えた深夜、鷹宮紫織の病室を訪ねていた。
いつものように、花束を持ち、紫織の特別室を訪ねる。
紫織の部屋に入ると、紫織はベッドの上で枕を背中にあてて起きていた。
速水が来る時間がいつも深夜なので、その時間に合わせて起きるようになっていた。
紫織は速水を見ると、にっこりと笑いかけた。
「真澄様!」
「こんばんわ、紫織さん」
そう言いながら、速水は紫織に花束を差し出した。
「まあ、今日もきれいなお花!」
紫織は嬉しそうに花束を受け取る。
お付きの者が花束をそっと、紫織から受け取ると花瓶に活ける為に病室を出て行った。
「今日は、何をして一日過していました?」
「ふふ、何も……、毎日、聞かれるのですね」
「……」
「そんな困った顔をなさらないで……、そう、音楽を聞いたり、お見舞いに来られた方とお話したりしてましたわ。
そうそう、私の好きな蘭の花が、咲きましたのよ。あなたが温室から持って来てくれたおかげで咲く所を見られましたわ」
紫織は窓辺に置かれた蘭を眺めた。
速水も一緒に蘭を眺める。
美しいカトレアの花だった。
「本当にきれいに咲きましたね。あなたに喜んで貰えてよかった」
「……真澄様、明日はいよいよ試演ですわね、あの子は主演女優の役を取れるでしょうか?」
「さあ、どうでしょうか? どちらにしろ、明日、決着が着くでしょう」
「真澄様、お願いがありますの、明日、試演の前にもう一度、ここに来て下さいませんか?」
「いいですが……?」
「もし、調子が良ければ観に行きたいのです。試演を……」
真澄はもともと、紫織と共に行く予定にしていた。紫織の席は取ってある。
しかし、真澄は紫織が行けるとは思わなかった。
それでも、今、それを言って紫織を落胆させる事もないと思った。
真澄は、明日の朝、紫織の病室に寄る事を約束して帰った。
翌朝、真澄は紫織の病室を訪ねた。
紫織は上品な白のワンピースを着て待っていた。真澄と一緒に行くつもりなのだろう。
真澄が病室に入って来ると、紫織は立ち上がって真澄を迎えた。
「紫織さん、体調はいいのですか?」
「いいえ、それが、あまりよくありませんの。
一緒に行こうと思って支度をしたのですが、やはり、行けそうにありませんわ。
……私、あなたにお渡ししたい物があって……」
そう言って紫織は手をふった。お付きの物が花束を持って来る。
「真澄様、これを……」
「これは……」
「紫のバラですわ。これをマヤさんに渡して上げて下さい。
私が悪かったと言っていたと伝えて下さい。
……真澄様、私のした事、どうか許して……。
これは、私のお詫びの印ですの」
紫織はそう言って花束を差し出した。
「……紫織さん、いいのですか?」
「ええ……、私、わかりましたの、自由を奪われる辛さが……。
入院して初めてわかりましたの。
それに、私、あなたを愛しておりますの。これが、私の愛の証ですわ」
紫織はそう言って、微かに笑った。
「真澄様、さあ、お行きになって……!
また、帰りに寄って下さいな、そして、試演のお話を聞かせて下さい」
「紫織さん、ありがとう!」
速水は、紫のバラの花束を受け取ると、紫織をぎこちなく抱きしめた。
紫織のほほに赤みが差す。
「さ、もう、早くお行きになって……」
速水は紫織に「行ってきます」と言って病室を後にした。
紫織はその場に立ち尽くし、真澄が行ってしまったドアを見つめた。
「行ってらっしゃいませ、真澄様……」
閉じられたドアに向って紫織はそうつぶやいた。
一方、こちらは「紅天女」試演会場。
試演会場のロビーには、大きな花スタンドが幾つも届いている。
その中に、ひときわ美しい花で飾られたスタンドがあった。
北島マヤ様
大都芸能株式会社 代表取締役速水真澄
マヤはそれを見て、周りの人間には「上演権がほしいに決まってる」と言ったが、その実、速水からの花束を素直に喜んでいた。
マヤは何かの事情があって紫のバラを贈れなくなった速水の気持ちを察した。
そして、舞台「紅天女」の舞台の幕が上がった。
マヤは、あたかも天啓がひらめいたような素晴らしい演技をした。
誰もがマヤの演技に引き込まれた。
姫川亜弓の演技も素晴らしく、目の悪い事を感じさせない舞台だった。
二つの試演が終わった。二つの組はそれぞれ、素晴らしい舞台だった。
甲乙つけがたい二つの試演に、観客による一般投票は割れた。ちょうど、半々だったのだ。
また、審査員の意見も二つに割れた。結局、月影千草によって決着が着く事になった。
千草は、逡巡した挙げ句黒沼組を選んだ。主演女優の座は北島マヤが射止めた。
が、そこで、劇団「オンディーヌ」の小野寺からクレームがついた。
姫川亜弓の目はほとんど見えない状態だったのだから、もう一度、投票をやり直してほしいと言った。
しかし、姫川亜弓は小野寺を制し、月影千草の決定を受け入れ、舞台を降りるとその足で病院へ向った。
月影千草は姫川亜弓の眼の病を気の毒に思ったが決定を変えようとは思わなかった。
試演後の祝賀会にて、速水真澄は一通り挨拶をすませると最後にマヤの元にやってきた。
試演会場の舞台、誰もいなくなった舞台にマヤを呼び出すと、紫のバラの花束を差し出した。
「チビちゃん、主演女優獲得おめでとう! 俺が君に紫のバラを贈っていた」
「速水さん!
あたし……、速水さんが紫のバラの人って知ってました。
名乗ってくれるのをずっと待っていたんです。
やっと、きちんと御礼が言える。
今まで支えてくれてありがとうございました」
マヤは紫のバラを受け取ると深々と頭を下げた。
「一体、いつ気がついたんだ?」
「最優秀演技賞の受賞の時です。メッセージに青いスカーフって書いてあったんです。
でも、青いスカーフは初日しか使ってなくて……。
それで、わかりました」
「そうか……」
マヤは口に出さずとも、自分の想いが速水に伝わったのがわかった。
速水の気持ちが知りたかった。紫織を愛していないと速水は言っていた。
では、自分をどう思っているのか、自分の気持ちは迷惑ではないのか、知りたかった。
が、速水は何も言わない。
紫織の存在が速水の口を封じていた。
「……紫織さんから伝言だ。『許してほしい』と言っていたよ」
「あたし、なんとも思っていません。気にしてませんって伝えて下さい」
速水は会場を後にした。
約束通り鷹宮紫織を訪ねる為である。
そして、病室を訪ねた速水真澄を待っていたのは、すでに彼岸へと旅立った鷹宮紫織だった。
紫織の父、鷹宮慶一郎が真澄に話しかけた。
「さっき、ほんの15分程前だった。紫織は静かに息を引き取ったよ。
君に連絡しようとしたんだが、紫織から止められて……。
さあ、会ってやってくれ、紫織に……」
速水真澄は紫織の枕元に立った。
紫織の穏やかな死に顔。
速水真澄は紫織の死に顔を見てもなんの感慨も浮かばなかった。
随分早かったんだなと人事のように思った。
「真澄君、君のおかげで紫織は人生の最後を幸せな気持ちで締めくくれたよ、ありがとう……」
「いえ、僕は何も……」
速水は泣いている紫織の母親や鷹宮翁に挨拶をすると病室を後にした。
車に戻った速水は、シートの上に紫のバラの花びらが落ちているのに気がついた。
今朝会った紫織がまざまざと浮かぶ。
胸をつかれた。
紫織は死期を察したのだろう、逝く前に速水を解放していったのだ。
速水は目を閉じ、目頭を押さえた。涙があふれた。
続く
Back Index Next