ヴァリエーション 連載第9回
鷹宮紫織が亡くなって半年が過ぎていた。
鷹宮紫織の葬儀の後、速水の周りでは、ばたばたと葬儀が続いた。
一人は月影千草であり、一人は速水英介だった。
英介もまた、千草の後を追うように旅立って行った。
「紅天女」を大都芸能で上演するのが夢だった速水英介だったが、その夢は結局叶わなかった。
「紅天女」は、かつて、「忘れられた荒野」が上演された雨月会館が名前をシアター月光座と改め、そこで上演された。
三ヶ月のロングランの後、惜しまれながら幕を閉じた。
速水邸では庭に桜が咲き始めていた。
執事の朝倉が真澄に小言を言っていた。
「真澄様、そろそろ、身を固めてもいいのでは……」
「朝倉、紫織さんを亡くしてまだ、半年だ。
確かに婚約しただけで、結婚したわけではなかったが、それでも、俺はまだ結婚する気になれない。
すまないが、もうしばらく待ってくれ」
執事の朝倉は真澄のいつもの言い訳を仕方なく承知した。
英介が亡くなり、真澄が家長となっていた。
英介の親戚筋は、英介の遺産を真澄からかすめ取ろうとしたが無駄だった。
英介の財産のほとんどが会社の物となっていたからだ。
真澄が大都グループの経営権を握っていた為、結局、真澄に頼らざるを得ない状態になっていた。
真澄は、彼らの為にマンション経営の会社を設立。賃貸収入で食べていけるようにしてやると縁を切った。
鷹宮慶一郎は紫織の最後を支えた真澄を可愛がった。
大都芸能は中央テレビとの良好な関係の上に発展した。
雨月会館改めシアター月光座の持ち主は劇場付属の劇団「銀狼座」を設立、黒沼龍三を専属の演出家に迎えた。
北島マヤは劇団「銀狼座」に所属、黒沼龍三に師事した。
そんな或る日、マヤはいつものように公園の桜を見ながら稽古場へと急いでいた。
公園の桜は七分咲きと言った所で、木によってはすでに満開となっていた。
マヤは、青い空をバックに咲き誇る桜の花を見上げた。
足を止め、思わず見とれる。
ーーきれい!
この半年、いろいろあったなあ。
月影先生、パフェおじさん、みんな逝ってしまった。
月影先生にはもっと、長生きしてほしかった。
マヤは月影千草の事を思うと、また、涙があふれそうになった。
目をしばたいて、涙を乾かす。
マヤを気を取り直したように歩き始めた。
その時、後ろから追いかけて来る足音が聞こえた。
ーーあ!
マヤはくるりと振り返った。
速水の足音だと思ったら、やはりそうだった。
「速水さん、おはようございます」
「やあ、チビちゃん、桜に見とれているとミーティングに遅れるぞ」
「えーーっ、大丈夫ですよ。今日は普段より早く出て来たんですから。
それより、速水さん! 今日は車じゃないんですか?」
「車だが、君を見かけたから降りて走ってきた。一緒に桜を見ながら行こう」
速水はそう言いながらマヤの髪に桜の花びらがひとひら、くっついているのに気がついた。
「チビちゃん、じっとしてろ……」
速水は手を伸ばすと花びらをそっと取り除いた。
マヤは、俯いて顔を赤くした。
その様子を速水は好ましそうに見ていた。
速水は思った。
ーー紫織さんの一周忌が終わったら、マヤに交際を申込もう。後、半年。半年立てばマヤと付き合える。
速水はそんな事を考えながら、マヤと共に桜を楽しんでいた。
そこに桜小路が現れた。速水は心の中で、軽く舌打ちをした。
「マヤちゃん、おはよう! 速水さん、おはようございます。今日は、こちらなんですか?」
「ああ、しばらくな。劇団『銀狼座』が軌道にのるまでは、こちらに集中しようと思う」
「あの、速水さん、僕、マヤちゃんに話があるんです。マヤちゃん、お借りします」
速水は桜小路がマヤを引っ張って行くのを見ていた。
桜小路はマヤを一本の桜の木の下に連れて来ると、深刻な顔をしてマヤに詰め寄った。
「ねえ、マヤちゃん、あの返事、どうしても駄目かな」
「桜小路君、あたし、ちゃんと断ったでしょう。お願い、これ以上、あたしを困らせないで」
「……、そうだね、ごめん、マヤちゃん……、そういえば、紫のバラの人とは、あれからどうなったの?」
「え? べ、べつに、会えないけど」
マヤは速水が紫のバラの人だという話を速水が名乗った後も誰にもしていなかった。月影千草以外は。
「……、早く会えるといいね。いっそ、君が紫のバラの人と会って失恋してくれたらいいなってこの頃思うよ」
「えー、そんなひどい!」
「ごめん、ごめん、さ、行こう、ミーティングに間に合わない」
速水は戻って来る桜小路とマヤを見ていた。
速水はマヤが魂の片割れだとわかっていたので、桜小路がつきまとっても安心していた。
マヤの気持ちが桜小路に傾く事はないと。
今も、マヤが桜小路を疎ましく思い、速水と二人だけで桜をみたいと思っているに違いないと思った。
速水は桜小路に余裕で接していた。
「話は終わったか? 君たち」
「はい!」
速水の問いにマヤと桜小路は元気よく答えた。
3人は連れ立って、劇団「銀狼座」稽古場へ向った。
速水真澄は、「忘れられた荒野」が雨月会館で上演された時、劇場の修理をする傍ら、雨月会館の買収を進めていた。
もともと、雨月会館の経営に熱心でなかった持ち主は、速水の申し出を受け入れ、速水に雨月会館を売却した。
速水は「紅天女」を大都芸能で上演するつもりはなかった。
義父への復讐の為、速水自身で上演する。それが、速水の望みだった。
速水は大都芸能を定年退職した人間や自身の人脈から広く人材を集めるとひそかに株式会社藤村プロダクションを設立。
みずから社長に就任、「紅天女」の試演が終わると雨月会館の名前をシアター月光座と改めた。
そして、マヤが「紅天女」の後継者に選ばれると、すぐに、独占契約の交渉を開始した。
大都芸能の速水真澄ではなく藤村プロの速水真澄として。
試演が終わった三日後、月影千草、北島マヤは演劇協会会長高橋氏の別邸で、独占契約の交渉に来た速水真澄と会っていた。
和風の部屋に据えられた洋風家具。障子を通して午後の日射しが差し込む。
速水は席に着くなり、早速、用件を切り出した。
「チビちゃん、月影先生、うちの条件を検討して貰えましたか?」
「ええ、どこよりも破格の条件ね。大都芸能を除いては……」
「先生もチビちゃんも大都では演じたくないのでしょう」
「速水さん、これはどういう事なんです?」とマヤ。
「別に、藤村プロとして交渉しているのだが……」
「どうして、大都芸能の速水真澄が、藤村プロの社長なんです?」
マヤにはわからなかった。月影千草がマヤに説明する。
「マヤ、いいのよ。こういう事はよくある事なの。複数の会社の社長になる事は可能だわ。でも、一体何故、あなたが大都以外の劇場で『紅天女』を上演させようとするのかわからないわ」
「僕は……、僕はこの手で『紅天女』を上演したいのです。義父に対する反発と言っておきましょうか」
「それでは、納得できないわね。真澄さん、本音を言って頂戴」
「先生、……僕は養子です。子供の頃、義父からは随分ひどいめにあった。僕は、母が死んだ時、誓ったのですよ。義父から総てを奪ってやると……。
義父が一番ほしがっている『紅天女』。それを僕がこの手で上演したいのです、大都以外で」
「つまり、速水英介への復讐というわけね」
「どう、取ってもらっても構いませんが……」
月影千草はしばらく考えていた。
「……真澄さん、あなたが相手では、信用出来ないわ。悪いけど他の会社を検討するわ」
「そうおっしゃると思っていました。……先生、申し訳ありませんが、上演権は既に僕の物です」
「なんですって! あなたに譲った覚えはなくてよ!」
「では、こちらの書類をご覧ください。」
速水は書類を取り出した。そこには、「紅天女」の上演権を速水真澄に譲るとあった。月影千草の署名と判がある。
「こ、これは……」
月影千草は真っ青になった。速水の声に凄みが加わった。今までの人当たりの良い速水ではない。スーツの下に戦う男の引き締まる筋肉が感じられる。
「いいですか、先生。先生に任せたら、こういう事になるんです。あなたから上演権を奪うのは簡単なんですよ。あなたは、上演権の管理を誰かにまかせるべきなのです。主演女優が上演権の総てを守る時代は終わったのですよ」
速水は自分の言葉が千草に浸透するまで待った。
千草は真っ青な顔で速水を睨みつけた。演劇協会とかわした書類。恐らく、あれに細工がしてあったのだろうと千草は思った。
速水が緊張をといた。ふっと口元に笑みを浮かべる。
「僕に上演権の管理をまかせてほしいんです。……先生、北島君に管理が出来ると思いますか?」
「速水さん! それぐらいあたしにだって出来ます」
「ちびちゃん、では、この契約書を読んでご覧」
マヤは、うっと思った。契約書をいきなり読めと言われて読んだが、マヤには理解出来なかった。
月影千草はマヤの様子にため息をついた。確かにマヤにはむづかしいだろうと思った。
速水は続けた。
「どこの劇場を使うか、脚本の管理をどうするか、こういった事をしっかり管理しなければ、『紅天女』は守れません。決して、金儲けの為に上演したりしませんから。その証拠にここに、契約書があります。目を通して貰えますか?」
月影千草は、速水が差し出した書類を読んだ。千草は読み終えると、静かに言った。
「いくつか、こちらの要望をいれてほしい点があるけど、概ねいいでしょう」
「でしたら、僕に管理をまかせて貰えますか?」
「任せるも何も、既にあなたの物になっているのでしょう」
「ですが、僕はあなたから依頼されたいのです。『紅天女』であるあなたから……」
千草は返事を渋った。この男の言う通りにするのは癪だった。
「マヤ、あなたはどうしたいの? 上演権は、いづれあなたの物になります。あなたが決めなさい」
「……、先生、あたし、あたし、速水さんを信じます。先生……、あの、速水さんが『紫のバラの人』なんです」
「え! 真澄さん、あなたが!」
月影千草は驚いてまじまじと速水を見た。速水は視線を落としたまま、沈黙している。
「先生を病院に入れてくれたり、あたしを高校に行かせてくれました。
今度もやり方は強引だけど、でも、速水さんなら『紅天女』を守ってくれると思います。性格は悪いし、冷血漢だけど、約束は守る人です」
速水はマヤの言い様にしのび笑いを漏らした。
「チビちゃん、君に褒めてもらって嬉しいよ」
こうして、月影千草と北島マヤは速水の提案を受け入れ、「紅天女」の上演権はマヤが継承するが、管理は速水が行う運びとなった。
が、それを、速水英介が納得する筈がなかった。
続く
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