青い日々 連載第4回
真澄の書斎で、マヤは数学の特訓を受けていた。
真澄はマヤに容赦なかった。数学の公式、そして、問題の解き方を丸暗記させた。
「考えるな! 君は基礎がわかってない。その状態で考えたって時間の無駄だ。暗記は得意だろう。脚本と思って暗記しろ」
マヤが解き方を覚えると、真澄はいくつかの応用問題をやらせた。
「いいか、ここの解にこの値を代入するんだ」
真澄が解き方を解説していると、マヤの首ががくっとおちた。
「あ、すいません!」
眠いのだろうと、真澄は時計を見た。夢中になっていて気が付かなかったが、すでの夜の11時を回っている。
「ああ、もう、こんな時間か」
真澄はお手伝いの紀代さんを呼ぶと、マヤを休ませるように言った。マヤは真澄に礼を言うと書斎を後にした。
「遅くまで大変ね」
紀代さんがニコニコとマヤに話しかける。
「いえ、あたし、頭が悪いもんだから……。速水さんっていつも一人なんですか? 夕食……」
「旦那様がいらっしゃる時は、お仕事のお話をしながら、夕食を食べられるわ。でも、大抵、お仕事で外で食べてらっしゃる事が多くて……。私の作ったケーキ、おいしかった?」
「ええ、とっても!」
マヤは満面の笑みを浮かべて紀代を見上げた。紀代はマヤの様子に、にこにこと微笑んだ。
「今日は食べてくれる人がいて良かったわ」
「速水さんはケーキを食べられないんですか?」
「甘い物が苦手なの。……旦那様は時々食べられるんだけど、坊ちゃんは全然。……真澄様はね、お義父様と血が繋がっておられないの。亡くなられた奥様の連れ子でいらしたのよ。子供の頃から利発な方だったそうよ! 旦那様が真澄様の才能に惚れ込んで、奥様と結婚されたんですって。奥様はね、ここで家政婦として働いてらして、お優しい方だったそうよ」
「へえ〜」
マヤは、あの速水真澄がと思った。
「お小さい頃から、学校が終わったら旦那様の会社に行ってお仕事をしてらしたの。最初はお掃除から始めたんですって!」
「へえー、あの速水さんが子供の頃、会社の掃除してたなんて……。だったらいつ、宿題とかしてたんですか?」
「さあ、きっと、お家に帰ってからじゃない?」
――ふーん、子供の頃から仕事させられてたなんて……、冷血仕事虫らしいけど、でも……、でも、子供の頃って、もっと遊びたいんじゃないのかなー。
マヤは思った。自分も小学生の頃からラーメン屋の出前を手伝わされた。でも、それは、家が貧しかったからだ。真澄の家のように金持ちの子が何故、働かせられなければならなかったのだろう。マヤには理解出来なかった。
「さ、こちらですよ」
紀代はマヤを風呂場に案内すると戻って行った。
マヤは風呂から上がり、2階の客用寝室のベッドに潜り込もうとしてはたと思い出した。マヤはパジャマの上からカーディガンを羽織ると真澄の書斎へ向った。
ほとほとと扉を叩く。真澄から返事はない。
「速水さん?」
返事はないが、扉の下から灯りが洩れている。マヤは思い切って、ドアを開けた。ソファの端から真澄の足が見えた。ソファを覗くと、真澄が何か書類を持ったまま、うたた寝をしている。
――どうしよう、、、。明日の朝、トレーニングをしてもいいかどうか聞きに来たのだけど、起すのも悪いし……。
マヤは部屋を見回した。椅子に膝掛けがかかっている。マヤはそれを取り上げると、真澄に掛けた。意地の悪い男だが、風邪がぶり返すと可哀想だとマヤは思った。ふと、マヤは真澄の寝顔を見た。端整な顔立ちである。睫毛が長い。
――ハンサムだなあ……。やだ、あたし、何、見とれてんだろう……。
マヤは顔を赤らめた。マヤは急に深夜、真澄の部屋に二人きりでいるのが意識された。あわてて、部屋に戻ろうとしたら、手を掴まれた。
「どうした?」
「あ、あの、ごめんなさい」
「何故、あやまる?」
「あの、あの、起したんじゃないかって……」
「うん? 別に構わんさ」
真澄は自分の体の上に乗っている膝掛けに気が付いた。ソファの上に起き上がりながら言った。
「これを掛けてくれたのは君か?」
「ええ」
マヤは真澄に掴まれた手が熱いと思った。
――あれ、速水さんの手が熱い。あ! まさか……
「速水さん、熱、出てません?」
マヤは思わず、真澄の額に自分の額をくっつけた。
真澄はマヤの行動に一瞬固まった。息をつめる。目の前にマヤのおでこがあった。
「……」
マヤはおでこを離すと真澄を不思議そうに見た。
「熱くない……、なんで?」
マヤは真澄の手をもう一度握った。
「手は熱いのに……」
真澄はマヤから手を振り払うと自分の額にあてた。さらにもう一方の手をマヤの額にあてる。マヤは真澄の熱い手を額にあてられてどぎまぎした。
「手が熱いのは寝てたからだろう。大丈夫だ。さ、君も部屋に戻って休みたまえ」
「あの、速水さん、あたし、毎日、トレーニングしてるんです。明日の朝、こちらのお庭でやっても構いませんか? それを聞こうと思って……」
「ああ、構わん! 好きなだけ、体操でもなんでもしろ。さ、子供は早く寝なさい」
マヤは真澄に子供扱いされてカチンと来たが、お休みなさいと言って部屋を出た。
真澄はマヤが出て行った扉を見つめていた。
――あれは子供だ。何の自覚もない。
真澄は、そう自分に言い聞かせて、心に起きたざわざわとした想いを無理矢理宥めた。
一方、マヤは、ベッドに潜り込みながら、真澄の端整な寝顔を思い出していた。
――ああやって寝てたら、いい人そうに見えるのになあ。
マヤは真澄がいい人だったらどんな感じだろうと想像してみた。だが、いい人の速水真澄なんて、まったく想像出来なかった。
続く
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