青い日々 連載第5回
「なんだ? あの声は?」
翌朝、真澄はマヤの大声で目を覚ました。
「アメンボアカイナアイウエオ!」
真澄はベッドの中から時計を見た。6時半である。
真澄は伸びをするとベッドから起き出した。テラスに出る。冬の朝、晴天である。澄んだ冷たい空気に身が引き締まる。真澄は「チビちゃん!」と呼んだ。呼ばれたマヤは日頃の真澄への嫌悪感をどこに置いて来たのか、珍しく嬉しそうに走ってくる。
「速水さん、おはようございます」
「ああ、おはよう。トレーニングは、発声練習だったのか?」
「はい、あの、毎朝してるんです……、やっぱり、うるさかったですか?」
「いや、まあ、仕方あるまい。ランニングは?」
「はい、済ませました」
「だったら、腹が減ったろう。食堂に朝食を用意させよう」
「はーい!」
真澄は朝倉に朝食の用意をするように言った。
食堂の大きなテーブルに朝食が並ぶ。白いテーブルクロス。真ん中には、冬場には珍しい春の花が活けられている。
食事のメニューは、ハムエッグ、トースト、サラダ、コーヒー、オレンジジュース。果物。
マヤは広い部屋で二人だけで食べる朝食に違和感を感じた。
「速水さん、いつも、こんな感じで食べてるんですか?」
「ああ」
「ふーん」
「なんだ?」
「あの……、速水会長がいない時は一人で食事をされるんですか?」
「ああ、そうだな。……朝倉とニュースの話をしたりするが、大抵一人だな」
「寂しくないですか?」
「くっくっくっくっく、マヤ、俺は……、イヤ、心配してくれてありがとう!」
真澄はマヤの質問を面白がった。が、マヤにはわからなかった。何故、真澄が笑うのか?
「あの、あたし、何か変な事、いいました?」
マヤは、こんな広い部屋で一緒に食事をする人もなく黙々と食べる速水を想像して気の毒に思ったのだが、速水の反応に同情するのをやめた。
「いや、別に……。それより、朝食がすんだら、昨日の続きだ」
「う、わかりました。数学ばっかりするんですか?」
「追試は数学だけだろう」
「え? あ! その、あの、そうです」
「おい、まさか、全教科とかいうんじゃないだろうな!」
「ははは、大丈夫ですよ、さすがに全教科じゃないです。それに、一部は、そのう、レポートにして貰いました。月曜日の追試は数学だけなんですけど、土曜日に英語と化学があります」
真澄は思わず、絶句した。が、気を取り直した。
「レポートの提出日はいつまでだ?」
「出来るだけ早くって……」
「教科は?」
マヤはちょっと目を天井に泳がせた。
「えー、生物と世界史です……」
真澄はちらっとマヤの様子を見ると、自分の手元に視線を戻した。
「世界史か、時代は?」
「えーっと、オスカルの所です」
「オスカル? なんだ、それは?」
「あの、『ベルサイユのバラ』っていう漫画があって、その、えっと、つまりフランス革命の時代です」
「君は……! 漫画を読む暇があったら教科書を読め!」
「でも、おかげで、よくわかったんですよ」
「だったら、何故、フランス革命が起きたか、言ってみろ」
「う、そ、それは、えーっと、、、民衆が貧困で特権階級の貴族ばかりが贅沢してたから、みんなが怒ったんです」
「……、君は小学生か? 高校生ならもっとましな答えをしろ。生物にしろ世界史にしろ、レポートは教科書をまとめたらいいだろう。教科書を後で見せろ。さ、食べたら、始めるぞ」
「はーい」
マヤと真澄は昨日と同じ真澄の書斎で試験勉強に取り組んだ。真澄はマヤに昨日の数学の続きをさせた。いくつかの問題をマヤに解かせている間に真澄はマヤの生物と世界史の教科書に目を通した。そして、番号をふった付箋をつけた。
二人は午前中は数学、午後から英語と化学をやり、夕飯の後はもう一度、数学をして過した。真澄は時々、マヤを怒鳴りたかったが、「女の子を泣かして……」と言った紀代の言葉を思い出しぐっとこらえた。
マヤが自分のマンションに戻ったのは夜10時を回っていた。
翌日、マヤは放課後の追試をなんとか乗り切った。数学の教師はマヤの答案を見て、解答が間違っていても解き方があっている問題は△にして、点を上乗せしてやった。教師は「北島君、やれば出来るじゃないか、君にしちゃあ、上出来だ」と褒めた。
マヤは、嬉しくなって、つい、学校の公衆電話から大都芸能へ電話をしていた。が、速水はいなかった。マヤはなんとなくがっかりした。受話器を置きながら、マヤは肩を落とした。
――あんな奴、ゲジゲジの冷血漢! 別に電話なんかしなくたって……。でも、それでも、あたしが追試で先生に褒められたって言って喜んでくれるのは、恐らく、あいつだけなんだ……。もちろん、商品としてだろうけど……
マヤはため息をつくと、真澄が熱心に数学を教えてくれた様子を思い出した。
母親のようにがみがみ怒るでもなく、月影千草のように師として接するのでもない。マヤが商品だとしても、マヤの為に一生懸命になってくれた速水真澄。
――あの男、バカなあたしにずっと付き合ってくれた。あたしがあんまり出来ないから今にも怒鳴りそうで……、必死で我慢してたっけ……。
マヤは真澄の様子を思い出して、微かに笑った。さらに、マヤは真澄の大きな手を思い出した。
――うまく問題を解けた時は頭をなでてくれた……。
真澄の暖かい手。マヤは頭を振った。
――あんな奴に頭を撫でられて喜ぶなんて、どうかしてる……。
マヤは、どうかしてると思いながらも、もう一度、真澄の書斎へ行きたいと思った。もう一度、頭を撫でられたかった。よくやったと言ってほしかった。
――別にあいつに会いたいとかそういうんじゃないんだから! あたしは、そう、レポートの話をしたいだけなんだから!
そして、その願いは叶えられた。
マヤが学校を出て、水城の待つ駐車場に行くと、水城だけではなく、速水真澄もまた、マヤを待っていた。
続く
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