青い日々    連載第7回 



 速水家のお手伝い、紀代さんの焼いたケーキ。真澄に託されたケーキをマヤはしっかり抱えて帰宅した。
水城はマンションの前でマヤを降ろすとそのまま、帰って行った。マヤが水城に一緒にケーキを食べようと言うと、水城は「太るからいいわ。あなた一人で食べなさい」と言い、マヤと共にケーキを食べようとはしなかった。
マヤはマンションで一人、ケーキを食べた。ケーキはバナナケーキで、バナナの風味が香ばしく、しっとりとした舌触りが絶品だった。それでも、水城と話しながら食べたらもっとおいしかっただろうとマヤは思った。
マヤは、早速、紀代に電話をしようと思ったが、人の家に電話するには遅い時間だった。翌日、学校の公衆電話からマヤは速水邸に電話を入れた。

「あの、北島マヤといいます。紀代さん、お願いします」

「私が紀代ですよ。マヤさん」

「あ、あの、ケーキありがとうございました。すっごくおいしかったです!」

マヤが礼を言うと紀代さんはほほほと笑って、「また、遊びに来て下さいね」と言った。マヤは「はい、お伺いします」と言って電話を切った。マヤは紀代さんにもう一度会いたいと思った。


土曜日。マヤは追試を受けた。
マヤは基本問題はかなり解けた。応用問題は出来なかったが、箸にも棒にもかからないという事はなかった。芝居以外何も出来ない自分が真澄に言われた通り暗記したら、試験問題をかなり解く事が出来た。これはマヤに取って今までにない経験だった。点数は、化学65点、英語70点だった。
マヤは駐車場に急いだ。真澄が待っていてくれると思うと嬉しかった。真澄のおかげでいい点が取れたと報告したかった。真澄に褒めて貰いたかった。駐車場まで走って行き、勢いよく車のドアを開けた。

「速水さん!」

「社長は今日は来られないわ。元々、お忙しい方だから」

水城の落ち着いた声にマヤは、がっかりした。

「追試は?」

マヤはため息をつきながら、車に乗り込むと、水城に答案を見せた。

「良かったじゃない。これで、追試とレポートは無事合格ね」

「レポートはまだ、わからないけど、大丈夫だと思う。水城さん、ありがとう。あの、速水さんに結果を伝えて貰えます? ありがとうございましたって」

「わかったわ。伝えておくわ。真澄様もお喜びになるでしょう」

マヤは思った。

――そうよね、忙しい人だもん。あたしなんかに構っている暇なんてないよね。でも、今度会った時にはちゃんと御礼を言おう。こんなにいい点が取れたのは速水さんのおかげだもの。


翌日の日曜日。その日は朝から雪だった。振ったり止んだりしている。マヤは散々迷った挙げ句、速水邸に電話をした。紀代さんに遊びに行ってもいいかと言うと、いいという返事だった。

――速水さんに会いに行くんじゃないもの、紀代さんに会いに行くんだもん。

マヤは自分に言い訳をした。真澄が付けてくれた運転手は、マヤのプライベートまでは付き合ってくれない。マヤはタクシーを拾うと一人で速水邸へ出かけて行った。速水邸では、紀代さんが迎えてくれた。ちょうどケーキを焼いた所なのよといって、マヤを台所に案内するとキッチンの一角にマヤを座らせ、一緒にお茶を飲んだ。マヤは、真澄がその日は仕事で出かけた事、夜遅くにしか帰らない事を聞いた。マヤは真澄に会えないのを少し残念に思ったが、真澄の噂話が出来るのが嬉しかった。ただ、何故か、マヤの知っている真澄と紀代の話す真澄は随分違っているとマヤは思った。

「速水さんって、笑い上戸ですよね」というと、紀代は、

「いいえ、真澄様も旦那様も家に居る時はほとんど笑わないんですよ。私……、ほら、マヤさんと一緒にいる時、ぼっちゃん、大笑いしてらしたでしょう。私、初めて拝見したんですよ」

「へえー」

マヤは不思議だった。真澄はマヤをからかってよく笑う。それは真澄にとって特別な事だったのかと思うと、ちょっぴり嬉しかった。

「この間はどこから歩いてらしたの」

「日舞の先生の所からです」

「日舞ってあの、○○流の?」

「ええ」

「あの先生のお宅は確か……、きっと違う稽古場ね」

「?」

「だって、先生のお宅は、車で15分はかかる所よ。歩いて来るなんて……。もし、歩いたとしたら、2時間は歩いている筈だわ」

マヤは小首をかしげた。

「……近道があるとか?」

紀代は狐につままれたような表情をしたが、すぐに納得した顔になった。

「……そうね、そうよね、近道があるのね、きっと……」

マヤはあの時歩いた道を思い出した。薄暗い街灯。高い土塀。人っ子一人歩いていない、見通しの悪い、なんとなく引き返すのがためらわれた道。

――速水邸が見えた時、ほっとしたっけ。人の気配がしたんだ。

その時、遠くで、門の開く音がした。

「あら、ごめんなさいね、ちょっと待っててね」

マヤはこれ以上居たら、紀代の邪魔になるだろうと思い、紀代が戻って来たら挨拶をして帰ろうと思った。母屋が慌ただしくなった。誰か帰って来たらしい。マヤは台所の窓からひょいと覗いた。いつの間にか、また雪が降り出していた。その雪の中、ちょうど真澄が車から降りる所だった。

――あ! 速水さん、帰って来たんだ。でも、不機嫌そう。何かあったのかな?

紀代さんは戻って来ると

「ぼっちゃんがお帰りですよ、あなたが来てるって言ったら、呼んでほしいって」

マヤはぱっと顔を輝かせた。だが、さっきの不機嫌そうな真澄の表情にマヤは帰った方がいいんじゃないかと一抹の不安がよぎった。真澄は応接室で待っていた。暖炉に火が燃えている。マヤは初めて見る暖炉を珍しそうに見た。真澄は帰ったばかりなので、スーツを着たままだ。暖炉の側にブランデーグラスを持って立っている。

「あ、こんにちは」

マヤはペコリと頭を下げた。真澄は、マヤをちらりと見ると、暖炉に視線を戻した。

「紀代さんの所に遊びに来たんだって」

「はい、あの、お邪魔でしたか?」

「いや、驚いただけだ。今日は休みだったのか?」

「そうです」

「君は休みの日は、いつも何をしている?」

「この頃は、マンションで芝居の稽古をしてます。以前は、公園でバイトをしていました。バイトの無い日は買い出しをしたり、部屋の掃除や洗濯をしてました。でも、大都に所属したおかげで、バイトはしなくていいし、家事は全部水城さんやプロの人がやってくれるし、もちろん、自分の部屋は自分で掃除するけど……、今日は……、追試の後だったから外出したかったんです。でも、昔の仲間とは会うなって言われてましたから……。紀代さんにケーキの御礼を言ったらぜひまた遊びにいらっしゃいって……」

真澄はマヤにソファを勧めた。自分は向かいの席に座る。ブランデーグラスをテーブルに置くと煙草に火をつけた。

「なるほど……、追試はどうだった?」

「あの、水城さんから聞いてませんか? おかげで、うまく行きました。ありがとうございました。速水さんのおかげです。化学が65点、英語は70点。今までで一番いい点数だったんですよ」

「それは、良かったな」

マヤは照れくさそうに笑った。

「へへ、速水さんの言った通り試験でいい点数を出そうと思ったら要領があるんですね」

「ああ……、俺は学校が終わると義父の仕事を覚える為に会社に行かなければならなかったし、休みの日には、会社の仕組みを専門家にならわなきゃならなくてな。家で勉強する時間があまりなかったんだ。だからと言って、学校の成績が落ちると怒鳴られた。学校にいる間は勉強が出来るから、授業は必死になって聞いたんだ。その内、教師が試験に出そうと思っている箇所にくると、言葉使いや口調が変わる事に気が付いた。明らかに試験に出るぞという先生もいたが、もっと細かい所で先生達は試験に出る所をしゃべっていたんだ。それがわかってからは、成績はどんどん良くなった」

「へえー、そういうのに気が付く所が凄い!」

「君も授業にあまり出られないなら、余計、真剣に先生の話を聞いてみろ。芝居の台詞だと思えば、覚えられるんじゃないのか?」

「それが、ダメなんです。以前やってみた事があるんですけど、聞けば聞く程、眠くなって……」

「くくくくく、仕方ないな」

真澄がおかしそうに笑った。

「速水さん、今日は夜まで帰らなかったんじゃないんですか?」

「この雪のせいだ」

「は?」

「今日会う予定の客が、雪だから延期したいと言ってきてな。まったく……」

マヤはそろそろ退散した方がいいかなと思った。予定をドタキャンされたのを思い出した真澄が一気に不機嫌になったからである。マヤはとばっちりが来そうなので急いで話題を変えた。

「この暖炉、素敵ですね。薪ですか?」

「ああ、業者が持って来てくれるんだ。ところで、君は桜小路とはどうなんだ」

「は? 桜小路君ですか?」

「休みの日に会ったりしないのか?」

「……あたしが、助演女優賞を取ってから、疎遠になってしまって……」

「……そうか、それは残念だったな」

マヤは最後に桜小路と電話で話した時の事を思い出した。どこかよそよそしかった桜小路。急に涙が溢れて来た。マヤは目をしばたいた。膝の上に置いた自分の両手に視線を落とす。

「君には才能がある。同じ芝居をする者だったら、君に嫉妬しない者はいないだろう。他人より才能があるんだ。孤独で当たり前だ。早く慣れるんだな」

マヤは驚いて真澄をまじまじと見た。あの速水真澄が自分を褒めている。才能があると言っている。信じられなかった。真澄の真っすぐな目。この人は本当の事を言っているとマヤは思った。マヤの孤独を理解しなぐさめてくれている。あの、速水真澄が!
マヤは視線を落とした。頬が熱くなり、顔が赤くなって行くのがわかる。

「あの……、褒めて頂いて、ありがとうございます」

二人の間に沈黙が落ちた。暖炉で薪がはぜる音がする。柱時計がカチカチと鳴っている。

真澄はマヤを眺めていた。黒目がちの瞳は、膝の上の両手に向けられ、睫毛に隠されている。平凡な顔立ちだが、滑らかで白い肌。赤く染まった頬。艶やかな黒髪。淡いピンク色の唇。全身から青い若さの香りがするマヤ。ふと、真澄は自問した。

――何故、俺はマヤに桜小路と付き合っているか聞いたのだろう。あれは、ただのボーイフレンドだ。子供らしい。
  俺は彼女の才能を愛しているんだ。決して、彼女を愛しているわけではない。そうとも……、この速水真澄が……。

「あの、そろそろ、お暇します。……あの、追試の面倒を見ていただいて、ありがとうございました」

マヤはペコリと頭を下げた。

「どう致しまして!」

マヤは立ち上がると、何気なく窓の外を見た。応接室の窓から速水邸の庭が見える。雪はいつの間にか止んでいた。

すると、狐が見えた。



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