恋物語    連載第9回 




 その夜、布団に潜り込んだマヤは、激しく後悔した。

――速水さんにキスしちゃった! なんてこと、しちゃったんだろう! それなのに、ゼッーンゼン覚えてないなんて!

マヤは枕を抱き締めた。速水は口に出して言わなかったが、きっと、呆れているだろう。穴があったら入りたいとマヤは思った。そして……、速水がこれからも付き合って行くと言ったのを思い出して、不思議な気持ちになった。

――きっと、きっと、社長と役者っていう意味なんだ。個人的にって言う意味じゃない。

速水と個人的に付き合う。マヤは、ふと夢を見た。速水がにこやかに笑いながらマヤに手を差し出す。しっかりと抱き締めてくれる。

――そんなのあたしの都合のいい夢なんだ。あれ? でも……。

マヤは社務所での出来事を思い出した。あの梅の谷で、確かにマヤは速水に抱き締められていた。手をつないで歩いた。

――あれは、梅の谷が見せた夢、現実じゃないの。ね、そうでしょう、紫のバラの人……。

マヤは枕に顔を押し付けた。涙は枕カバーに吸い込まれていった。


一方、速水はマヤを満月荘に送った後、彼女の言葉を反芻していた。
電話していいと言われ、こんなに嬉しい事を言われたのは、何時以来だろうと思った。ふと、マヤの気持ちを思った。しかし、同時にマヤがドラマのスタッフや劇団仲間と気楽に話している所を思い出した。人が良く、フレンドリーな彼女。電話を受けてくれるのも、彼女のフレンドリーさの現れなのだろうと思った。

――それでもいいさ、それでも。これからはいつでも彼女と話せるんだ!

速水は幸福な思いを胸に帰路についた。


翌朝、速水は、クローゼットの中からスーツを取り出そうとして手を止めた。

――あれから半年……、もう、いいだろう……。

速水は喪に服すのをやめた。春らしい明るい紺色のスーツ、白のワイシャツ、カナリアンイエローのネクタイ。そして、時計を変えた。手首に銀色のバンドが輝いた。

大都芸能の女子社員達は速水の服装の変化に色めいた。速水は鷹宮紫織を忘れられないかもしれない。しかし、鷹宮紫織が思い出になった時、速水は他の女性とつき合うようになるかもしれない。その相手に自分が選ばれないだろうか? 女子社員達はおしゃれに磨きをかけた。
速水の秘書、水城の所へ、女子社員達はやって来た。速水の好きな女性はどんな女性か、好きな食べ物や飲み物は何か、水城に口々に質問する。水城は彼女達を眼鏡の奥から一瞥すると、一喝した。

「速水社長は仕事の出来る控えめな女性がお好きです。キャバクラ嬢のような格好をして社長を出迎えたら承知しませんからね」

女子社員達は水城の一喝に恐れをなし、それからは朝の出迎えは控えめにするようになった。


春が過ぎ、初夏となった。
大都芸能と鷹宮グループとの提携は順調だった。鷹宮翁は速水を可愛がった。それは、そのまま、大都芸能の発展に繋がった。
大都芸能の女子社員達は北島マヤが速水社長の「お気に入り」と言う噂を最初は信じていなかった。速水社長と北島マヤの母親の暗い話を噂好きの女子社員達は既に知っており、どう考えても、二人が友好関係になるとは思えなかったからである。しかし、社長とマヤがランチを一緒に食べに行く様子や、仲良く連れ立って散歩する様子を真近に見ると、噂はあながちでまかせではないのではと女子社員達は思った。そして、社長がマヤを大事にする理由は、北島マヤが「紅天女」女優であり上演権を持っているからというのが女子社員達の結論だった。
マヤもまた、自分が速水社長の「お気に入り」という噂を聞くにつけ、女子社員達と同じように自分が「紅天女」女優だからだと思った。

真澄とマヤの二人は、デートを重ねた。本人達がどう思っていようと傍から見ればそれは立派なデートだった。
速水はデートではない、ただの食事会、或は、マヤの演技の参考に芝居や映画に連れて行っているだけだと思い込もうとしていた。
マヤは、密かにデートだと思っていたが、それを口にする事はなかった。
速水と一緒に食事をし、芝居を見て、日常の様々な話をする。
速水がチビちゃんと言って子供扱いしたら、ぷんぷんと抗議をする。速水が落ち込んだら寄り添った。
或る日、二人で食後の散歩している時、速水が何気なく言った。

「俺達はいい友人だな、何も言わなくても通じる」

速水は笑ったが、マヤはどきりとした。
マヤに取って速水は仮想の恋人だった。しかし、速水はいい友人という。忘れていた胸の痛みがよみがえった。

「うん、どうした? 顔が青いぞ?」

マヤは無理矢理笑った。

「ううん、大丈夫です。あ!たいやき売ってる。速水さん、食べましょ!」


速水の言った「いい友人」という関係。いつでも好きな時に好きな事を話せる気の置けない友人。マヤは辛いと思ったが、それが確かに二人の関係だった。
そして、それが、二人を次の段階へ進ませる障害となっているとは知る由もなかった。
いい友人。
しかし、友人なのだ。にもかかわらず、二人はその関係に満足した。
互いに愛し互いに相手をたった一人の魂の片割れであると認めていたにも関わらず、その先へ、一歩も踏み出せずにいた。
あまりにも今の状態が幸せだったから……。
もし、自分の想いを告白して今の素晴らしい状態が壊れてしまったら……。
その恐怖に何も出来ない二人だった。


あの梅の谷で二人の間に流れていた小さな小川。
それは今でも二人の間に流れていた。
二人はその岸辺を並んで歩いていた。
小川の上流に向って歩いているのか、下流に向って歩いているのか……。
互いに小川へ一歩踏み出そうと、小川を渡って向こう岸へ、相手のいる岸辺へ行こうとはしなかった。



二人は鯛焼きをたくさん買い込むと近くの公園に行った。ベンチに腰を降ろす。
マヤは鯛焼きをぱくぱくと食べながら速水に言った。

「速水さん、雲斬山に行った事ありますか?」

「雲斬山? いや、知らんな?」

「ジェーンを掴む時に行ったんです。すっごい所でしたよ。夜には星がいっぱい見えるんです。今度一緒に行きませんか?」

「ああ、そうだな……、場所はどの辺だ?」

速水はペットボトルのお茶を一口飲んだ。マヤは三つ目の鯛焼きを頬張っている。

「えーっと、電車にのって、適当に行ったんです。場所がどこかと聞かれても……」

速水はくすくすと笑った。

「君らしいなあ、じゃあ、どの駅で降りたんだ?」

「えっと、奥多賀駅です。終点でした」

「そうか、調べておこう」


速水は散歩の後、社に戻ると早速奥多賀駅を調べ、雲斬山への登山ルートを調べた。
思った以上に険しい山でマヤが3日間この山で軽装のまま彷徨ったかと思うと速水はマヤのあまりの無鉄砲さに怒りが沸いて来た。

――いくら演技を掴む為とはいえ、これはやりすぎではないのか! 無事に帰って来れたから良かったようなものの遭難したら生死に関わったんだぞ!

だが、速水はマヤの狼少女ジェーンの演技を思い出していた。

――あの演技は無鉄砲さの賜物なのだ。これからも彼女は演技を掴む為なら無鉄砲をするだろう。

速水は息を吐き出して怒りを沈めると、ドライブルートを調べた。
その夜遅く、速水は携帯でマヤに電話をした。
速水はマヤに星を見るのは無理だと話していた。

「え! どうしてですか?」

「泊まりがけになるからな」

「……」

「ドライブなら行けるが星は無理だな」

「あたし、速水さんと一緒に見たかったです。でも、泊まりがけはまずいですね、ふふ」

「ああ、そうだな」

一瞬、沈黙が流れた。その一瞬、二人は同時に考えた。相手が恋人ならと……。
そんな思いを打ち消すように速水が言った。

「……だったら、うちの別荘に来るか?」

「別荘ですか?」

「ああ、伊豆にあるんだ。近くにホテルもあるし、君はそちらに泊まればいい」

「ホントですか! 嬉しい! あたし伊豆に遊びに行った事ないんです。いつ行きます?」

マヤは必要以上にはしゃいだ。子供が親に海水浴に連れて行って貰うようなそんなはしゃぎ方だった。
速水はマヤの所属する芸能社の社長としてスキャンダルは御法度だと思った。
例え俺とでも、未婚の彼女を男と二人、別荘に泊まらせるわけには行かない。
それでいて、速水はマネージャーを一緒に連れて行こうとは全く考えもしなかった。


梅雨が終わり夏が来た。伊豆へのドライブ当日。
速水はマヤをホテルマリーンへ送った。速水は駐車場でマヤがチェックインするのを車の中で待っていた。
するとイケメン俳優谷崎透の姿が目に入った。
ちょうど着いた所らしく、車から降りてまっすぐホテルのエントランスへ向う。
速水の何かが警鐘を鳴らした。





続く     web拍手 by FC2       感想・メッセージを管理人に送る


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