恋人 連載第3回
真澄は社長室の窓から雨に濡れた都会の風景を眺めていた。
脳裏に昨日の朝倉と義父英介の顔が目に浮かぶ。
「真澄、昨夜は紫織さんと一晩、クルーズ船で一緒だったそうだな」
「いいえ、紫織さんは渋滞に巻き込まれて、船に乗れなかったんです。
一緒ではありませんでした。幸いな事に……。
義父さん、紫織さんとの婚約を解消します」
「な、何を言う! 今になって!」
「紫織さんとは、結婚出来ません。あの女は信用出来ません。婚約を解消します」
「真澄! どういう事だ」
「紫織さんは僕には一言も告げずに、ワンナイト・クルーズに誘ったんですよ。
拉致監禁と同じではありませんか?
もし、これが、何か重要な契約を控えていたらどうします?」
「しかし、一応、休みの日を選んだのだろう。紫織さんにもそのくらいの常識はあるだろう」
「とにかく、朝倉、使者を立てろ。婚約解消の手続きに入ってくれ」
そのとき、来客を告げる声がした。鷹宮紫織の乳母、滝川が速水家にやって来た。
いや、乗り込んできたというべきか。
一通り挨拶を述べると、滝川は本題に入った。
「真澄様、紫織お嬢様から御伝言です。
『昨夜は夢のような一時でした。次にお会い出来るのを楽しみにしております』
との事でございます」
「何をいまさら! 紫織さんは昨日、渋滞に巻き込まれて船に乗れなかったじゃないか!」
「とにかく、すでに既成事実は出来上がっております。今更、結婚を破談にしようとされても無駄でございます」
滝川は言うだけ言うと帰って行った。
「真澄、あきらめろ!」
義父の声にも、真澄はめげなかった。
「いいえ、既成事実が出来ていようがいまいが、婚約を解消します」
朝倉が控えめに口を挟んだ。
「しかし、若、あの船は鷹通汽船の持ち物。従業員をいい含めて紫織お嬢様と若が一緒に乗った事にするのはたやすいかと思います。人様の娘さんを傷物にしての破談は幾ら何でも難しいと思います」
真澄は黙るしか無かった……。
それでも真澄はなんとか、婚約を解消しようと思った。
――紫織さんが身を引いてくれたら……
無理だな。
どうすればいいだろう。紫織さんを傷つけたくないのだが……。
そんな考えに真澄が没頭していると、秘書の水城が声をかけて来た。
「真澄様、会議のお時間です」
「ああ、わかった、今行く」
真澄は、自分の考えを振り払うと会議室へ向った。
会議が終わった後、速水は取引先に向う途中、聖とライバル会社の資料の受け渡しの為、いつもの駐車場で待ち合わせた。
駐車場に着いた速水は、聖の車に乗りこんだ。
「真澄様、こちらが、宝竹の資料です」
聖はそう言うと、運転席から真澄へ封筒を差し出した。
真澄は無言で受け取ると中身を確認した。
「これで、奴らの一歩も二歩も先をいけると言うものだ」
真澄が封筒を受け取ると、聖はさらに話を続けた。
「真澄様、それと……、折り入ってご報告したい事が……」
「なんだ」
「マヤ様のアルバムですが、今、どちらに?」
「マヤのアルバム? 伊豆の別荘だが……」
「……びりびりに引き裂かれてマヤ様に送り返されておりました」
「なんだと! そんな馬鹿な! アルバムは別荘の書棚の中だ!
それにマヤはそんな事一言も言ってなかったぞ。一体いつの話だ?」
「先週の事です」
――先週? 先週だと……。
「俺が暴漢に襲われる前か?」
「はい、その辺りだと思います。私もマヤ様から直接聞いたのではなく、同じ劇団員から聞きまして……。
マヤ様に記者としてインタビューしたのですが、大変明るいご様子で……。
それと、あなた様に、『紫のバラの人』に伝言をお預かりしております。
『信じていますから』と……」
「マヤが、信じていると言っていたのか……」
速水にはマヤの気持ちが痛いほどわかった。写真を破ったのは俺ではないとわかっていると言いたかったのだろう……。
速水は聖にマヤとの仲が進展した事を言おうかどうしようか迷った。第一、照れくさかった。
が、腹心の部下に「紫のバラの人」の使いという任務は無くなったと言わなければならない。
「聖、話しておく事がある。実は……」
真澄が照れながらマヤとの顛末を話すと、この腹心の部下は心からの祝いを真澄に向って言っていた。
「真澄様、ようございました。お祝いを申し上げます。とすると、マヤ様を……」
「ああ、そうだ、恐らく紫織さんだろう。紫織さんは、俺がマヤの『紫のバラの人』だと気がついたのだろう」
真澄はため息をついた。
マヤのバックにわざと指輪を入れ、ウェディングドレスにマヤからジュースをかけられたかのように装ったのも紫織だろう。
「俺の責任だ……」
「しかし、マヤ様と恋人になれるとは思っていなかったのですから……」
「ああ、そうだな、マヤを諦めようと努力して、諦めきれずにこうなった。
……聖、俺はどうすればいい」
「まずは、円満な婚約の解消が急務かと……」
「ふむ……そうだな……」
真澄は紫織を傷つけたくないと思っていたが、紫織が人の大切な物を踏みつけにするような人として最低の女だとわかった以上、容赦しなくていいだろうと思った。
「聖、耳を貸せ」
二人の男達は、十分に話し合うと別れた。
策は密を持って良しとする。
続く
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