恋人   連載第4回 




 センセーショナルな記事が、三流低俗新聞に載ったのは数日後の事だった。

「大都芸能速水社長、紅天女主演女優候補、北島マヤと豪華客船で熱いラブシーン!」

「某日、豪華客船『アストリア号』の船上にて珍事が発生した。
 演劇界では有名な犬猿の仲、大都芸能速水社長と紅天女主演女優候補、北島マヤがダンスタイムに華麗なダンスを披露したと言うのだ。
 記者は乗客数人にインタビューをした結果、確証を掴んだ。それが、この写真だ。一見、叔父と姪にしか見えないカップルだ。
 (二人が踊っている写真)

 北島マヤは劇団『つきかげ』を大都芸能に潰されたなど、様々な経緯があって、速水社長を恨んでいると言われている。
 北島マヤが速水社長に会うと人前で大声で『大っ嫌い!』と叫んでいた事は有名な話で、記憶に新しい所では、昨年のミュージカル「イサドラ」初日、パーティの席上でのハプニングがある。
 その犬猿の仲の二人が、なんと翌朝、スポーツデッキで抱き合っていたというのだ。
 記者は、二人が抱き合う写真をなんとか入手しようと試みたが残念ながら出来なかった。
 しかし、数人の乗客による証言を手に入れた。
 『二人はラブラブで抱き合っていましたよ』『もう、あてられちゃって!』
 一体、二人の仲はどういう仲なのだろうか?

 ちなみに速水社長には、鷹宮紫織嬢という婚約者がいる。
 ワンナイト・クルーズは婚約者の紫織嬢が用意したものだそうだ。
 この頃のセレブのお嬢様は自ら婚約者をベッドに誘うらしい。
 速水社長は業界では堅物で通っている。恐らく、結婚まではと紫織嬢の手も握らなかったのだろう。
 業を煮やした紫織嬢が自ら、速水社長をベッドに誘ったとしても不思議ではない。
 尚、紫織嬢は渋滞に巻き込まれ船には乗れなかったという事だ。
 下の写真を見てほしい。岸壁に佇む紫織嬢が港の防犯カメラに偶然写っていた。
 (鷹宮紫織嬢が岸壁にたたずむ数枚の写真)

 さて、二人が抱き合っていたと言う話の真実だが、なんと北島マヤが現在稽古中の芝居『紅天女』の芝居の一シーンを速水社長相手に練習していたという物だった。

 北島マヤさんの談話
 『実は、鷹宮紫織さんに用事があって船に乗ったんです。
  探している内に船が出てしまって……
  そしたら、速水社長と偶然であって……。速水社長は船を降りようとしていました。だけど、結局間に合わなかったんです。
  それで、速水社長から、あたし、夕飯をご馳走して貰いました。ご馳走して貰うばかりでは悪いので、ダンスのお相手をしました。
  その日は満室だったので、スポーツデッキ横のロビーで長椅子をお借りして休みました。
  朝起きたら、日の出が素晴らしくきれいで……、速水社長も感激してらして……。
 (速水社長も長椅子だったんですか?)
  はい、女性が一人で長椅子で休むのはよくないとおっしゃって、付き添って下さいました。
  速水社長が、ぜひ、あたしの阿古夜を見たいって……。
  日の出の光の中の阿古夜が見たいておっしゃって……
  速水社長は芸能社の社長さんです。私の演技を見て頂くいい機会だと思いました。
  それで、速水社長に一真役をやって貰ったんです』

 北島マヤは演技の天才と言われている。相手役を舞台の上で本気にさせるほどの名演技をする女優さんなのだ。
 ベテランの役者でも、本気になってしまう北島マヤさんの演技の前に素人の速水社長がその気になったとしても不思議はないだろう。
 一真役にのめり込み過ぎた速水社長の飛んだハプニングだったというわけだ。
 堅物社長をその気にさせる北島マヤの演技! ぜひ、見てみたい物である。
 10月10日に行われる試演が実に楽しみだ」


この記事は、あらゆる方面に影響を与えた。
まず、秘書の水城が速水に問い質した。

「社長、これは一体なんです!」

「水城君、俺とマヤが記事になるのが、そんなに変か?」

「違います! あなただったら、こういう記事が表に出る前に止められたでしょうと言っているのです」

「俺にだって出来ない事はある」

速水はシレッとした顔で言った。サングラスの奥から速水のその様子を見た水城は、ははーんという顔をした。

「……真澄様、ここに書かれている事は本当なのですか?」

「ああ、そうだ。マヤを抱きしめた。
 ついでに婚約解消を紫織さんに言ったよ。どうしてもあなたを愛せないと言ってね。
 そしたら、私は船に乗っていたと言い出した。
 私はあなたと一晩過したのだから婚約の解消は出来ないと言い出す始末だ」

「なるほど……、それで、リークしたのですね」

「いや、俺は何もしていない。ライバル会社の人間か誰かが噂を流したのだろう」

「真澄様!
 それで……、今夜の紫織様とのデートはどうなさるおつもりです?」

「それは、恐らく紫織さんが決めるだろう」

「紫織様が?」

真澄の予言は的中した。
その時、社長室の電話がなり、水城が出ると鷹宮紫織が受付に現れたという知せだった。

「社長、紫織様がいらっしゃいました」

「そうか、通してくれ、そうだな、応接室がいいだろう」

「承知しました……」

水城は、鷹宮紫織を出迎える為、社長室を出ようとしたが、速水の方を振り返るとまじめな顔をして言った。

「社長、マヤちゃんとの事、ようございましたね」

速水は照れたような曖昧な笑顔を浮かべ水城から目をそらした。


一方、鷹宮紫織は激怒していた。

――やっぱり、マヤさんと何かあったのだわ。
  こんな事って、ひどい!
  婚約者の私を差し置いて、こんな女優風情と!
  悔しい!

紫織は応接室で待つ間もかんかんに怒っていた。
紫織の元にその三流低俗新聞が何故、届けられたのか?
普段、そんな新聞が鷹宮家の居間を汚す事はない。
その新聞は、なんと紫織のお琴仲間からもたらされたのだ。
それも、仲の良い相手ではない。
その人物は、成金不動産屋の娘で、家柄の無い引け目から時折、紫織に当て擦りを言う、そういう女だった。
その彼女がわざわざ紫織を訊ねて来て、さも、御注進という風情で紫織にその新聞を渡したのだ。

(『まあ、鷹宮様、婚約者とワンナイト・クルーズでしたのね。
  船に乗れなくて残念でしたわね。
  せっかく、女性の『あなた』からお誘いしたのに……。
  今度は赤坂プリンセスホテルでもご利用になられたら?
  でも、陸の上だと部屋に連れ込む前に逃げられておしまいになるかもしれませんわね!
  おーほっほっほっほ』)

彼女の高笑いが耳の奥でこだまする。
紫織は、恥をかかされた怒りに我を忘れた。
まっすぐに真澄の元にやってきたのだ。

真澄が応接室に入ると、紫織が怒り狂って待っていた。

「真澄様! これは何です!」

新聞を速水に叩き付ける。

「おや、あなたでもこんな低俗三流新聞を読むのですか?」

真澄はわざと一面ではなく、アイドル歌手の奔放な水着姿が載っているページを広げてみせた。
紫織は真っ赤になって目をそむける。

「それは……!、今日、お友達がわざわざ持って来てくれたのですわ!」

「紫織さん、これであなたが船に乗っていなかったのは周知の事実となった。
 女優風情と浮き名を流すような男は鷹宮家の花婿には相応しくないでしょう。
 違いますか?
 あなたから婚約を解消して下さい」

紫織は、はっとした。

「真澄様! あなたが、あなたが、わざとこんな記事を書かせたのね!」

「いいえ、僕は何もしていませんよ」

真澄はゆっくりとした動作で煙草に火をつけると、深々と吸い込んだ。

「……人の口に戸は立てられないといいますしね……」

真澄は煙草を吸いながら黙って紫織を見下ろした。うす笑いを浮かべている。
その表情に紫織は初めて、真澄のもう一つの仮面、冷酷で残忍なやり手社長の仮面を見たのだ。
獲物は決して逃さない。自分の欲しい物にしっかりと目標を定め何があっても必ず自分の物にする鉄の意志の持ち主。
彼が婚約を解消すると言ったら、必ずするのだ。
そうわかっても、尚、紫織は抵抗した。こちらも、筋金入りの我が儘娘だった。

「真澄様、婚約は解消しません、ええ、しませんとも!」

紫織はそう叫ぶと、応接室から出て行こうとした。
その後ろ姿に向って真澄が言った。

「そういえば、僕のサプライズパーティを伊豆の別荘で開いてくれるそうですね。
 あなたを招待した覚えはなかったのですが……」

紫織は振り返った。冷たく見下す真澄がいた。
紫織は真っ赤に怒っていた顔が、瞬時に白くなるのがわかった。

「な、なんの事ですの!」

真澄は黙っている。紫織の方が我慢できなかった。一気に怒りをぶつける。

「あ、あなたが悪いのですわ。
 北島マヤのアルバムを後生大事に隠しているのですもの。
 『紫のバラの人』なんていう足長おじさんを喜々としてやってたなんて!
 私は婚約者よ。
 愛される権利があるわ!」

「呼ばれもしないのに人の家に勝手に入り込む。
 人が大事にしている物を粉々にする。
 僕は、あなたを優しい人だと思っていた。
 優しく聡明で美しい人だと……。
 大事なアルバムを引き裂かれて、マヤが傷つくとは思わなかったのですか?
 最後にもう一度、あなたに名誉を回復するチャンスを上げよう。
 あなたから婚約の解消を言いなさい。
 そう、北斗プロの襲撃事件がいい。
 あんな危険な男とは結婚出来ないと、お爺様におっしゃい。
 お爺様も納得するでしょう」

「いやよ! 私は、私はあなたと結婚するのよ!」

「僕はあなたに今まで仕事の話はしないできた。
 しかし、そうだな、これだけは話しておきましょう。あなたとの別れの挨拶に。
 北斗プロの3人がどうなったか……」

「それは、どういう意味です」

「あの3人は、虫の息で北斗プロの事務所の前に転がされていたそうですよ。一体、誰がそんな事をしたのでしょうね」

「ま、まさか……」

「……さあ、婚約を解消するといいなさい」

「いや、いやよ!」

「まだ、言うのですか?
 ……あなたは、自分を軽蔑する男と結婚出来るのですか?」

真澄が冷たい瞳で紫織に近づいてきた。

紫織はどこかの誰かが言っていた言葉を思い出した。

――まあ、速水真澄ですって!
  あの冷血漢とお付き合いしているんですの。
  業界では恐ろしい男として有名ですのに……。
  でも紫織様なら、あの男の氷の心を溶かせるかもしれませんわね。

紫織は結局、真澄の心を溶かせなかった事を悟った。
彼が紫織に対する時、いつも優しかった。
それは、紫織が彼にとって敵ではなかったからなのだ。
紫織はたった今、それがわかった。
が、わかったからと言ってどうなるものでもなかった。
すでに遅すぎた。

真澄は手に持つ煙草を手近にあった灰皿でもみ消した。
顔には怜悧な刃物のような凄みのある表情を浮かべている。
体全体から男という性が持つ肉体的強さを発散させている。

――怖い!

紫織は野獣を前にしたような恐怖にいきなり襲われた。全身の肌が粟立つ。
逃げろと本能が告げていた。
それでも、紫織は気丈に言っていた。

「私の……、私の気持ちをわかって下さったら、必ず私を愛するようになりますわ。
 私と結婚すれば……」

紫織は半泣きである。真澄の迫力に足が震える。
真澄が手を上げた。

――殴られる!

「ひっ!」

紫織は思わず顔をかばった。

「何を怯えているのです。髪にゴミがついていますよ」

真澄は紫織の髪に手をやるとゴミを取る振りをした。

それが、紫織の限界だった。紫織は暴力に対して全く免疫がなかった。
殴られるかもしれないという恐怖が、紫織の最後の砦を破壊した。
ほとんど、貧血で失神しそうになる瞬間、真澄に応えていた。

「わ、わかりました。こ、婚約を、婚約を解消します……」

そして、紫織は失神した。





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