紅の恋 紫の愛    連載第10回 




 速水が、弱冠遅れて3時前に会社に戻ると、マヤがぼんやり窓の外を眺めていた。

「どうした? ぼんやりして」

「あ、おかえりなさい」

「初めてで疲れたか?」

「ええ、少し……」

「まあ、いいさ。さ、見せてみろ」

速水はマヤの隣に立つと企画書を覗き込んだ。

「あ、あのね、速水さん……」

「なんだ?」

「……お昼前に紫織さんが来てたんです」

「ああ、秘書課の連中に聞いた。もうすぐ来るかもしれない。来たら応接室に通すよう言ってある。君と顔をあわせる事はないだろう」

マヤは秘書達が給湯室で話していたたわいのない話を紫織が聞いたようだと話した。そして、思い詰めた表情で帰っていったと速水に告げた。

「あたしの取り越し苦労かもしれないけど、速水さん、紫織さんに電話してあげて。お願い!」

「……、それには及ばないだろう、もうまもなく来ると思うし」

「ううん、きっと、紫織さん来ない。もし、あたしだったら絶対来ない。好きな人から軽蔑されたって知ったら死にたいって思う」

速水はマヤの言葉に不吉な物を感じた。時計を見ると3時を回っている。紫織は速水と待ち合わせる時はいつも5分前には来ていた。
30分以上遅れる事などなかったし、遅れる時は連絡が入った。今日は約束をしていた訳ではないが、秘書課の人間に2時半に来ると言ったのだったら来る筈だった。
速水は携帯を出すと、紫織の携帯にかけた。
しかし、電源が切ってあるのかつながらない。
速水は鷹宮邸にかけた。呼び出し音の間、胸騒ぎがした。
やっとつながった鷹宮邸だったが、出たのはお手伝いの一人だった。

「はい、お嬢様は御気分が悪いと言われてお部屋でお休みになられています。
 お嬢様からどなたからの電話も取り次がないよう言われてまして……」

「お付きの滝川は?」

「お嬢様の用事でお琴の先生の所へお使いに行かれています」

速水は様子がおかしいと思った。紫織の琴の師匠は名の通った人である。用事がある時は紫織本人が出向く。
速水は電話口で怒鳴っていた。

「君……、君名前は?」

「は、はい、家事をお手伝いしております宮部と申します」

「宮部君、お嬢さんは今日うちの会社に来たんだが、帰り際の様子がおかしかったと、秘書が言っていてね。
 紫織さんの様子を見て来てくれないか? 君の立場が悪くなるようだったら僕の名前を出すといい。
 緊急なんだ」

宮部と名のる女中は速水の物の言いように不安になったのだろう、しばらくお待ち下さいと電話を保留にすると紫織の部屋に向った。

速水は電話口で待っている間、不安がだんだん広がっていくのがわかった。
秘書の水城が会議室に入って来たので、携帯のマイク部分を手で抑えて水城に言った。

「水城君、至急、運転手に車を回すよう言ってくれ。これから鷹宮邸に行ってくる。マヤ、すまない。あとで、電話する」

速水は慌ただしく飛び出して行った。


車に乗るのを待つ間に、もう一度携帯がつながった。

「速水様、お嬢様が、お嬢様が……、自殺されようとして……」

「医者は?」

「今、お呼びしました」

「それで、紫織さんの容態は?」

「わかりません」

「生きてるんだな!」

「はい、いつもの貧血を起されて!」

「30分でそちらに着く。気をしっかり持って紫織さんについててくれ」

速水はそれだけ言うと電話を切った。


速水が鷹宮邸に到着すると紫織はちょうど医者の手当を受けている最中だった。
速水はお手伝いの宮部に、お付きの滝川に至急帰って来るよう連絡させた。
紫織の遺書、速水宛になっている遺書を取り上げると中身を確認、自身の上着の内ポケットに滑り込ませた。

紫織は懐剣で首をついて死のうとしたが、結局、出来なかった。
首をつこうとした瞬間、宮部がふすまをあけた。

「お嬢様!」

宮部は慌てて紫織から懐剣を取り上げようとした。
紫織は宮部に抵抗、その時、腕を切ってしまった。その痛みといつもの貧血で、紫織は失神した。

鷹宮邸では、鷹宮翁は九州の経済連合会から招待を受け1週間ほど東京を離れていた。
紫織の母親はフランスへ、父親は業者の接待を受けて終日ゴルフの予定でいなかった。
やがて戻ってきた滝川に速水は事情を説明した。
滝川は驚くと同時にテキパキとその場を仕切った。
幸い宮部以外の使用人達は紫織の病状をいつもの貧血と思ったようだった。
滝川は医者と宮部にきつく口止めをした。

「速水様、適切な処置をしていただいてありがとうございます。
 おかげさまでお嬢様は大事にいたりませんでした。
 お願いでございます。お嬢様の側についていて下さいませ」

滝川は深々と頭を下げた。
速水はもとよりそのつもりで、紫織の枕元に座った。



やがて、紫織が目を覚ました。

「真澄様! 何故、ここに?」

「あなたが会社から出る所を見ていた者がいましてね。様子がおかしかったと僕に報告をしてくれたんですよ」

紫織の目から見る見る涙が溢れ出した。顔を手で多い泣きながら切れ切れに言葉を紡ぎ出す。

「真澄様……、どうか……、どうか……、私を、見ないで……、わたく、し……は……、う、ううう、……もう、もう、お帰りになって……」

「わかりました、僕がいたらかえってお体にさわるようだ。……僕宛の手紙、こちらで処分しておきます」

はっとして、紫織は真澄を見上げた。

「あれを……、お読みになったの?」

「……、紫織さん、あなたを軽蔑したりしていませんよ。誤解です」

紫織の目から、さらに幾筋もの涙がしたたり落ちる。

「……ま……すみ……さま、そう言っていただけて、どんなに嬉しいか……。でも、でも」

紫織は嗚咽を上げ、枕に突っ伏した。

「婚約を……婚約……を解消します、もっと、早くに……おわかれ……するべき……でした……」

「紫織さん……、すまなかった」

速水は紫織に深々と頭を下げた。


その夜遅く、速水邸に戻った真澄は、紫織の遺書を暖炉で焼いた。



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