紅の恋 紫の愛    連載第11回 




 奇しくも、真澄32歳の誕生日、鷹宮紫織と速水真澄は、ひっそりと婚約を解消した。

紫織は、自殺しようとした事を誰にも言わなかった。家族にも……。
たまたま、嫁入り道具にと思っていた懐剣を眺めている時、貧血を起し倒れる時に腕を傷つけたと言った。
家の者が誰もいなかったので、お手伝いの宮部が気をきかせて速水に連絡、律儀な速水が来てくれたという事にした。
紫織は、久しぶりに速水と話したが気持ちが冷えてしまっているのを確かめただけだったと鷹宮翁に話し、婚約を解消したいと訴えた。
翁は、孫娘の気持ちがそこまで変わってしまったのなら仕方がないと思い、婚約を解消させた。

鷹宮慶一郎、紫織の父親は事業提携をどうするか考えた。
自分の父親、鷹宮翁の気持ちもわかるが、娘の紫織の気持ち次第で事業をころころ変えるべきではないと判断。
取り敢えず、現状維持とし再度大都グループが事業提携先として妥当かどうか検討、妥当でなければ緩やかに提携を解消する事にした。

紫織の父親、中央テレビ社長鷹宮慶一郎は、電話で今後の事業提携について速水に打診した。

「速水君、紫織との事は残念だった。君が娘婿になってくれていれば、これほど心強い事もなかったと思うよ。
 私としては、現在提携している業務は終了まで継続するとして、新規事業については、まあ、こういう事情なので、他の業者と同様に扱わせてもらうよ」

「はい、もちろんです。他社と競合しましても、当社の良さは必ずご理解いただけると信じております」


速水の仕事は取り敢えず、紫織との婚約解消による影響はほとんど無かったが、半年先にはいろいろと支障が出始めるだろうと予想した。半年後に向けて今から準備しておかなければと速水は思った。

一方、マヤは再開された「紅天女」の稽古にいそしんでいた。
桜小路の怪我は順調に回復していた。桜小路は怪我の経験から新しい一真像を作り出し、それは黒沼を満足させた。
マヤもまた、速水との恋が阿古夜の恋の演技にリアリティを与えていた。


真澄は時々マヤと会っていた。
伊豆の別荘に連れて行きたい気がしたが、まだ早いように真澄には思われた。

(ここまで待ったのだ。急ぐ事は無い)

真澄はそう思った。
ただ、砂漠でオアシスを探すように真澄はマヤを求めた。


マヤの稽古が終わる頃、速水はマヤを時々迎えに行った。
劇団員の目につかない所で偶然を装って、速水はマヤを車に乗せた。
そして、今日もまた、速水とマヤは一緒に食事をしようとレストランに向った。

マヤは速水と屈託なく会えるのを喜んだ。
まるで、奇跡だとマヤは思った。

――速水さんと、速水さんと……、こんな風にデート出来るなんて……、信じられない!

速水もまた、信じられなかった。

――マヤと一緒に食事が出来るなんて、その上……、マヤが俺に微笑みかけてくれるなんて……

二人は食事の間中、とりとめのない話をした。

「そうだ、マヤ、君のアイデアだが、あれを大都で買い取らせてほしい」

「えっ! そんな買い取るなんて、あれ、速水さんにあげますよ、だって、あの、速水さん、この間、誕生日だったんでしょう。
 あたし、知らなくて……、だから、あげます」

「……、君はあのアイデアがどれくらい価値があるかわかってるのか?」

「いいんです、そんな価値、あたし、知らなくて……」

速水はもったいないと思った。マヤのアイデア。あれを実現させれば、数億の金を稼げるだろう。
速水はすでにマヤのアイデアの幾つかを実行可能な段階まで企画書にしていた。

「それに、アイデアだけではお金にならないでしょう。速水さんがお金にして下さい」

速水はマヤがそう言うのでありがたく貰っておく事にした。


マヤは掃除婦をしていてわかった事がある。
社員が意外に社長の速水を信頼している事だ。
速水は女優や俳優に対しては売れなくなったらすっぱり切り落とす冷血漢なのだが、社員は大切にしていた。
大都の給料は他の同業他社より弱冠いい位だったが、ヒット作がでて会社が儲かった時はボーナスという形で社員に還元していた。
速水個人の口から社員を大切にしているなどという甘い言葉を聞く事はなかったが、会社として社員を大事にしている雰囲気がマヤにもわかった。
そして、マヤにもう一つわかった事があった。
掃除婦をしている最中、まだ、速水と紫織の結婚式が延期されただけで婚約が解消されるかどうかはっきりしていなかった時、大都の社員達が結婚式が延びたのを不安に思っていた事だった。
このまま、婚約解消になるのか、それとも、結婚するのか。
婚約解消になった時、鷹通グループとの事業提携がどうなるのか、鷹通グループと今後うまくやっていけるのか、妨害行為を受けるのではないかと言った不安が社員達の間に漠然と広がっていた。
速水の結婚一つで社員の暮らしが変わる。
マヤは改めて速水が大都芸能全社員の責任を負っているのだと痛感した。


レストランからの帰り、速水はマヤをアパートに送った。
アパートから少し遠くに車を停めて、アパートまでの道のりを速水とマヤは手をつないで歩いた。
これもいつしか二人の習慣になっていた。
大抵、青木麗がいるのでアパートの前で別れる二人だった。
が、その日、青木麗は地方公演に出かけていて留守だった。
マヤは速水ともう少し一緒にいたかった。
が、言い出せない。
自分からアパートの部屋に速水を誘う。
これでは、いつかの紫織の二の舞になるのではないかとマヤは危惧した。

アパートの前まで来た時、ふと速水が言った。

「マヤ、君の部屋、灯りが消えているが……」

「あの、麗は今日、地方公演で留守なんです……」

一瞬、沈黙が流れた。

「……マヤ、部屋に寄ってもいいか?」

マヤは驚いて速水を見上げた。
速水がフイッと視線をそらす。
マヤは思わず、速水の腕を掴んでいた。

「ええ、速水さん、ぜひ……」

マヤは部屋に入ると、石油ファンヒーターのスィッチを押した。
暖かい空気が、部屋に広がった。速水に座布団を勧める。
コートを脱ぎ、バックを置くとマヤはやかんにお湯を沸かした。
マヤは万が一、速水が来た時の為にと用意しておいた灰皿を出した。
ガラスで出来た灰皿は、麗と一緒に行った100円ショップで買ったのだが……。

「マヤ、灰皿なんて必要ないよ、一角獣の連中が来た時は空き缶で十分さ」

麗が最初から一角獣の劇団員達の為の灰皿と思っているので、速水が来るかもしれないと言い出し損ねたマヤだった。

「でも、やっぱり一つくらいあっても……」

マヤはそう言って100円の灰皿を速水の為に買った。きれいなブルーグリーンのガラスの灰皿を。
使う事は無いかもしれないと思いながら……。


今、マヤはいそいそと、買ったばかりの灰皿を速水の前においた。
速水は卓袱台の前に座り、出された灰皿を手に取って見た。

「どうした、この灰皿……」

「……この間、速水さんが来た時、空き缶しかなかったから……」

「それで、買ったのか?」

「……、使うかどうかわからなかったけど、もしかしてって思って」

速水は指先で灰皿を持ち上げた。きれいなブルーグリーンのガラスを空かしてみる。
アストリア号から見た海の色。

「……マヤ、来てほしかったのか?」

マヤは赤くなった。

「そ、そういうわけじゃないけど……」

速水はマヤに手を差し伸べた。

「……おいで」

マヤは速水の胸に飛び込んだ。嬉しくて思わず笑みがこぼれる。

「本当は、ほんとうはね、速水さん、あたし、あたし、速水さんを抱きしめたかったの」

「マヤ……」

マヤの真摯な言葉に速水の胸は熱くなる。
速水はマヤの顎に手を添えると、マヤの顔を上に向かせた。
マヤの体を抱き寄せ、膝の上に乗せる。手で髪を梳く。
マヤの総てが愛おしかった。
マヤの唇にそっと口付けする。
小鳥のような口付け。
マヤもまた、速水の唇に口付けする。
マヤの吐息が真澄の鼻腔を満たした。瞬間、真澄の目の前が真っ白になった。
そして、堰を切ったようにマヤの唇を貪り始めた。

長い、長いキス。

いつのまにか、マヤの腕は真澄の首にまわされ、マヤもまた真澄を求めていた。

が、そこで邪魔が入った。
お湯が沸いたのだ。やかんが鳴る。
マヤが火を消そうと真澄の腕の中から立ち上がろうとした。わずかに真澄が引き留める。
マヤは、あっと思いながらも真澄の手から立ち上がり台所に立った。
掠れた声で言う。

「今……、今、お茶を……」

真澄はマヤの後ろ姿を眺めていた。
自身の熱がゆっくりと収まって行く。が、熾き火のように、身の内で燃え続けるのだろうと真澄は思った。

お茶を持って来たマヤの手を真澄はそっと指先でなでた。中指から手の甲へ、ゆっくりと。
真澄は袖口から覗いたマヤの腕の肌が泡立ち震えるのを感じ、マヤの声にならないあえぎを聞いた。
真澄が指先を離すとマヤはさっと手を引っ込めた。
顔を赤らめ横を向く。

「マヤ、伊豆の別荘に行こう、今度の休みに……」

マヤはそっと頷いた。



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