紅の恋 紫の愛 連載第8回
あの週刊誌が発売された直後、マヤがキッズ・スタジオに行くと劇団員達がやはり週刊誌の記事を見て騒然としていたが、すでに落ち着いている。
新聞記者も大勢いたが、今はいなくなっている。
原因は、某大物歌手が薬物取引で捕まった事件だった。
速水が火消しの記事が出ると言っていったが、この事だったのかと黒沼龍三は思った。
試演が3ヶ月延期になった事で、黒沼組はちょっとダレている。
そこで、黒沼は10月末まで団員を休ませる事にした。
黒沼は、さらに、各団員に他の仕事のスケジュールの調整をするよう言い渡した。
マヤは稽古が休みになったので、どうしようと思った。
いつもは青木麗に相談するのだが、今回は速水に相談した。
マヤは携帯で速水にメールをする。
相談したい事があります。黒沼組は10月末まで休みになりました。
休みの間何をしたらいいかわかりません。 マヤ
すると速水はある提案をマヤにした。
「マヤ、君は『舞台と稽古場の世界しかしらない』と言っていたな。掃除婦をやってみないか? うちで」
「掃除婦?……」
速水は説明した。自分も子供の頃、会社の掃除をさせられた事、掃除をしていると会社のいろいろな面が見えて来る事を説明した。
「社会見学には持って来いだぞ。ただ、北島マヤとわからないようにして貰わないといけないが」
「やります、速水さん、ありがとう!」
「じゃあ明日……、そうだな、7時半に大都の通用口に来るといい。水城君に手配させておこう。会社で俺と会っても知らん顔するんだぞ」
「はい! 速水社長!」
二人は電話口で笑いあった。
マヤは速水の婚約がまだ解消されていない事を十分承知していた。それでも、速水と軽口をたたく楽しさは少しも損なわれなかった。
翌日、マヤは7時半に大都の通用口に行った。変装用の眼鏡をかけ、マスクを付け、髪をキャップ帽に押し込んでいる。
ジーンズで出来たつなぎを着ている姿は少年のようである。
水城は清掃担当者にマヤを自分の遠縁の子で、佐藤ひろみと紹介。社長の許可は取ってあるので、2週間掃除の手伝いをさせるようにと言った。
特に総務と経理部門を掃除させるように指示をした。
大都芸能には、演劇、映画、音楽部門が各事業部としてあり、さらに、施設管理部門があった。
演劇関係は、マヤの正体を見破られる可能性があるので、総務、経理部門を主に掃除する。
大都芸能では、芸能部門は時間に関係なく仕事をしているが、経理や総務は普通の会社と同じように9時から5時までが就業時間である。
社員によっては、8時半になるとすでに会社に来ている。社員がやってくるまでに部屋の掃除はすませて置かなければならない。
社員が仕事を始めると、邪魔にならない廊下や、給湯室、トイレの掃除をする。
マヤは、清掃担当者の後について掃除をして回った。
最初は慣れない仕事なので、辺りを観察する余裕がなかったが、2〜3日すると掃除をしながらでも、回りの状況がわかるようになった。
社員の名前と顔を覚えた。社員達の様々な話を漏れ聞いた。
マヤは速水に毎日メールをした。
速水はマヤのどんな小さな疑問にも丁寧にメールで説明した。
マヤには会社の経営がどんな物かわからなかった。
マヤへ
家計に例えるとわかりやすいかもしれない。父親が働いて給料を持って帰る。
それをどう使うか家族で話し合うだろう。
ガス、水道のように必ず使うお金をお給料から引いた残りで洋服を買ったり
みんなのお小遣いにしたり、貯蓄にまわしたりする。
会社も同じ。大体の収入と支出が決まっているから、予算を立てるんだ。
芸能社の場合、コンスタントに収入を確保するのは難しい。
そこで、劇場や複合ビルを作って一定の収入を確保するようにするんだ
或る日、マヤは会議室に呼ばれた。
ホワイトボードの前に速水がいる。マヤは資料を渡されて速水の講義を受ける事になった。
マヤに取っては、久しぶりに会えた速水だったが、正直、講義には閉口した。
それでも、新規に企画を立てる方法を速水から聞いたマヤは、急に生き生きとした笑顔を速水に向けた。
「速水さん、もし、あたしがこんなお芝居に出たいって企画書を作って持って来たら検討して貰えるんですか?」
「ああ、そうだな、やってみるか?」
「う〜ん、アイデアならいくらでも出せるけど……」
「アイデアだけでは駄目だと説明したろ。会社の金を使うんだ。
上の人間や、テレビ局、融資を受ける場合は銀行を説得する数字が必要になる……。
……が、しかし……」
速水はしばらく考えていた。
「取り敢えず、アイデアを出してみるか? どうやったら、企画書に出来るか、教えてやろう」
速水はマヤのアイデアがどんな物か知りたかった。
演技の天才が、こんな芝居に出たいと言う時、それがどんな物か、速水は芸能社の社長として興味があった。
マヤが、一生懸命勉強している頃、速水英介は鷹宮紫織に会おうと鷹宮邸を訪ねていた。
紫織を待つ間、真澄と週刊誌の記事についてあれこれ交わした会話が思い出される。
――真澄、この記事はなんだ……。
――その記事が何か?
――おまえは婚約者がいるくせに、北島マヤと抱き合ったのか?
――北島の芝居に付き合っただけですよ、『紅天女』の。
――ふむ、そうだろうな、母親をおまえに殺された北島マヤがおまえと恋仲になるわけがないな。
紫織さんとワンナイト・クルーズか、おまえにしちゃあ、大胆な……。
――いえ、段取りは紫織さんが……。僕は騙されて連れて行かれましてね。とんだお嬢様でしたよ。
そこまで思い出した時、紫織が応接室に入ってきた。
――この楚々としたお嬢様が、自分から真澄をワンナイト・クルーズに誘うとはな……。
英介はそんな感想を抱いたが、おくびにも出さずに紫織に挨拶した。
そして、若い女を説得するには、どうしたらいいかと考えをめぐらせた。
一方、紫織は英介が突然訪ねてきたのは、婚約の解消を急ぐ為だろうかと身構えていた。
「紫織さん、息子から襲撃事件の話を聞きました。
あんなものは大した事ではないんですよ。
もし、あなたがうちの嫁になってくれるなら、2重3重にボディガードをつけましょう。
どうぞ、安心して嫁に来て下さい」
紫織は英介の話に、婚約解消ではないとわかり、ほっとした。
少なくとも、英介は自分と真澄を結婚させたがっていると心強く思った。
「まあ、おじさま、それをおっしゃりにわざわざお見えになられたのですか?」
「いや、久しぶりに紫織さんに会いたくなりましてな」
「まあ、ほほほ……、あの、おじさま、ちょうどいい機会ですわ。
私、おじさまに教えてほしい事がありますの」
「はて、なんでしょう」
「真澄様は子供の頃に誘拐されたとか?」
「ああ、その話ですか? 何、大した話ではありません」
「お幾つくらいの時だったのですか?」
「そうさな、あれは、いつだったかな? おい、おまえ、覚えているか?」
英介は側に控えていたボディガードに話しかけた。しかし、ボディガードは最近新しく雇われた者で昔の事は知らなかった。
英介は携帯を出して、朝倉に聞こうとした。
紫織は、そんな英介の様子を驚いて見ていた。
――まあ、自分の息子が誘拐されたのに、それがいつかも忘れているなんて……。
誘拐なんて、生き死にがかかっていたでしょうに……。
なんて、冷たいのかしら。
紫織はそう思ったが、或は、嫌な記憶なので早く忘れたいのかもしれないと思った。しかし、それは違った。
「紫織さん、今、執事に確認したら、10歳くらいではなかったかと言っておりました。
あれの母親が亡くなる前でしたな」
「そういえば、お母様は、ご病気だったと聞きましたが……」
「家でボヤがありましてな。妻は儂の紅天女のコレクションを取りに戻って、その時、怪我をしたのです。
結局、それが元で亡くなりました」
「まあ、なんてお気の毒な……」
「しかし、おかげで紅天女の紅梅の打掛けは無事でしてのう」
――え! 自分の妻が亡くなったのに打掛けの心配をするの! なんて男なのかしら!
紫織はあきれたが、それが、顔に出ないように気をつけた。
「おじさまは、本当に『紅天女』がお好きなんですのね」
「儂の生涯かけた夢ですので……」
「真澄様は、お母様を早くに亡くされて、寂しがったのではありませんか?」
「さあ、どうでしたかな。しかし、母親が死んで何か吹っ切れたようになりましてな。
それからは、儂の会社の経営を必死になって覚えるようになりましてね。
子供心に連れ子なので母親がいなくなれば、家を追い出されるとでも思ったのかもしれませんな」
「まあ、そうでしたの」
――この男は! なんてひどい男なの。
母親を亡くしたばかりの子供に会社の経営を教えるなんて……。
「しかし、真澄は紫織さんにベタボレですなあ。
誘拐の話を人にするなど、いままでなかった事ですわ。
よほど気を許しているのでしょうな」
「さあ、どうでしょう」
「とにかく、紫織さん、儂はあれを経営者として最高の男に育て上げました。
きっと、あなたのお父上の役に立つでしょう。
ぜひ、結婚してやって下さい。
あれも、あなたに惚れておりますのでね」
「おじさま、ありがとうございます。……真澄様に、今度、会いに行ってみます」
紫織は嫉妬のあまり鬼になってしまう一面を持っていたが、子供は子供らしく育てられるべきだと思っていた。
真澄の子供時代のアルバム。笑顔のない写真で埋められたアルバム。
あれは、真澄が父親から愛されなかった証なのだと紫織は気付いた。
英介が真澄をスパルタ教育で育てた結果、真澄が誰にも心を開かない人間になったのだと理解した。
そして、北島マヤだけが、真澄の心の扉を開いたのだろうと推測した。
真澄に対する理解が、紫織の何かを変え始めていた。
もう一度、真澄とやり直せないだろうかと紫織は思った。
2〜3日後、紫織は真澄に会いに出かけた。
アポイントは取らなかった。約束をしようとしても断られるだろうと思い、押し掛ける事にした。
続く
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