紅燃ゆる 連載第5回
その後の事をマヤはまったく覚えていなかった。
気が付くと黒沼竜三に水をぶっかけられていた。
――冷たい……
マヤは体を震わせた。
「しっかりしろ、北島。おまえが阿古夜をやらなくてどうする」
水の冷たさがマヤを現実に引き戻した。ここは試演会場楽屋。
「黒沼先生!」
「おお、どうやらこの世に戻って来たみたいだな。あっちの世界に行っちまったんじゃねぇかって心配したぞ。ほら、支度しろ! もうすぐ、幕が開く」
「先生、速水さんが……」
水をぽたぽたと滴らせながら、マヤは慟哭のあまり涙さえ出て来ない。
「大丈夫だ、速水の若旦那はまだ死んじゃいない。死にそうだが持ちこたえている。おまえが阿古夜を演るのを若旦那は楽しみに待ってたんだ。いい芝居をしろ。きっとおまえの芝居を見たくてあっちの世界に行ったりしない」
マヤは黒沼を見上げた。無表情な顔に精気がよみがえる。
「速水さんは、生きてるんですか!」
「ああ、生きてる。なんだおまえ……、若旦那が死んだと思ってたのか? だいじょうぶだ。大体、憎まれっ子世にはばかるっていうだろう。若旦那が簡単に死ぬ訳ないじゃないか」
マヤは泣き出した。生きているという安堵感がマヤに涙を流させた。そして、マヤは真澄がマヤに手を握られながら血を流していた様を思い出した。苦痛の中で必死に言った真澄の最後の言葉。
「うううう……、速水さん、あたしに言ったんです。試演が終わるまで持ちこたえるって! あたしが負けたら失望して死ぬだろうって……あたしの演技に速水さんの命が掛かってるんです。あたし、あたし、出来ません……」
黒沼は頭をぼりぼりとかいた。
「若旦那も無茶を言うなあ……。あのな、北島、若旦那はおまえなら出来ると信じてるんだ。ああ、ほら、時間がない。誰かこいつに支度をさせてやれ。おまえが持って来た紅梅の打掛け、使うぞ! 若旦那からなんだろう?」
マヤは泣きながらうなづいた。その時だった。
「マヤちゃん、受付に届いていたわよ」
劇団員が紫のバラの花束を持って来た。その花束を見てマヤはもう一度泣き出した。泣きながら抱き締める。
マヤは思い出した。
真澄が常に速水真澄としてマヤを叱咤して来た事を、「紫のバラの人」として影から支えてくれた事を。今も支えようとしてくれる。
――速水さん、紫のバラの人!
あたしに無理難題を吹きかけたくせに!
それなのに紫のバラを贈ってくるなんて!
速水さんのばかぁー!
マヤは泣きながら一昨日の真澄を思い出した。真澄の大きな腕。
――あたしはずっとあの大きな腕の中にいた。
ずっと……、あの大きな腕で守られてきた。
速水さん、あなたがあたしを育てた。
速水さん、あたしの魂の片割れ!
救ってみせる! 必ず!
マヤは手の甲でごしごしと涙を拭う。黒沼を見上げ闘志をみなぎらせた顔で答えた。
「先生、あたし、大丈夫です! あたし、やれます!」
「ああ、その意気だ!」
支度をしに楽屋へ向うマヤを見送りながら黒沼は桜小路や主だった出演者に耳打ちした。
「北島は理由あって昨日、大量に献血をした。取り敢えず薬で眠らせて体力が回復するようにしたが、試演中ふらつくかもしれん。その時はアドリブで切り抜けろ。大丈夫だ。おまえ達なら出来る」
マヤの相手役桜小路は思った。
――マヤちゃん、君はずっと速水さんと一緒だったんだね。僕は……。
桜小路は胸に沸き上がる苦い思いを押さえ込んだ。
――もういい、今はいい、舞台の上で僕は……、僕は君の魂の片割れになるよ……。
そして、ついに幕が上がった。
「誰じゃ 私を呼びさます者は誰じゃ……
森のこだまか夜の静寂か……
いや……、これは血の匂い……」
黒沼龍三は舞台の袖、瓦礫と化した駅の残骸が残る舞台、その脇から舞台となった空間を見ていた。
黒沼組の試演は午前中である。
10月10日は晴れの特異日と言われ、今日も晴れている。そして、さんさんと降り注ぐ朝の太陽の中、北島マヤは登場した。都会の瓦礫の中、照明による効果もない。
しかし、そこに女神がいた。
マヤが舞台に登場しただけで女神がいると観る者総てを納得させた。何という迫力。何と言う存在感。
そして……。
「血の匂い」
マヤが真澄の血にまみれたのは昨日の事だった。
真澄の血の匂いとガソリンやタイヤが燃える匂いをマヤはまざまざと思い出した。ふと、マヤの仮面が割れそうになる。
が、マヤは凄みをまして観客をねめつけた。
リアルな血の匂いをマヤは既に自分の物としていた。演技に深みが増す。観客が一様にぞくりと身を震わせる。
そして、中盤、一真との絡みでは恋する乙女をリアルに演じていた。
「出会えば互いに惹かれ合い もう半分の自分を求めてやまぬという
早く一つになりたくて 狂おしいほど相手の魂を乞うると……
それが恋じゃと……」
甘く切ない声音。マヤの真澄への恋心がそのまま演技に溢れた。手の動きに、視線の先に恋の花が咲いた。
更に一真と引き離されるた阿古夜。やせ衰えた阿古夜の演技。経験したばかりのマヤの慟哭は演技となってほとばしる。
芝居終盤、梅の樹を伐りに来る一真。
自分を切りに来る愛しい一真。数ヶ月振りの逢瀬。
「おまえさま!」
その一言に万感の想いがこもる。
一真との対決の時がせまっていた。マヤの胸に死にかけた真澄を前にした気持ちがよみがえる。
――速水さんが生きてさえくれたら、あたしはどうなってもいい!
速水さん、紫のバラの人! お願い! 生きて!
一真は斧を振り上げる、千年の梅の樹に向って。
それを止めようとする精霊達。
彼らの前に腕を広げて立つ阿古夜。
一真は斧を振り下ろした。
その場に倒れる阿古夜。一真は樹を切り続ける。やがて切り倒される梅の樹。倒れた梅の樹を前にはっとする一真。阿古夜に駆け寄る。
一真に抱きかかえられ、げっそりとやつれた阿古夜の顔にわずかに生気が戻る。
「おまえさま、阿古夜はいつもそなたと共にいる……」
「阿古夜! 阿古夜ーーーー!」
暗転。帝の回想を経て黒沼組「紅天女」の幕は降りた。
午後から行われた小野寺組の「紅天女」は、太陽の位置をうまく計算した芝居となった。
日が沈んで行くのと合わせて、一真と阿古夜の恋が悲劇に向った。
亜弓の演技は素晴らしく目の不調を感じさせなかった。
やがて二組の試演は滞りなく終わった。日は既に暮れ、照明がつけられた。
どの役に誰が選ばれるのか?月影千草が壇上に立った。
「二組の試演を見て、どちらの試演も素晴らしい舞台でした。みな、思った以上によく役を掴んでいました。舞台で何が起きても、自分に与えられた役のまま、舞台を続けられるかそれを見るのが目的でした」
こう前置きをして月影千草は、黒沼組を選んだ。そして、主演女優にはマヤが選ばれた。その時だった。
「待ってくれ、姫川亜弓は目がほとんど見えないんだ。主演争いはもう一度やり直してくれ!」
小野寺は叫んでいた。叫んだ小野寺に姫川亜弓の平手打ちが飛ぶ。が、その平手打ちは小野寺の頬をそれ、鼻頭をかすっただけだった。
「なんて事をおっしゃるの。この期に及んで!」
きりきりと姫川亜弓は唇を噛んだ。
「亜弓さん、今の話は本当ですか?」
月影千草が訪ねる。ゆっくり振り向く亜弓。
「……、はい、先生! 今もご覧になりましたでしょう。小野寺先生の頬を叩こうとしてあたりませんでした」
「そんな! 亜弓さん!」
マヤが声を上げる。
「同情しないで! マヤ、あなたに同情されるなら死んだ方がましよ! あなたが主演女優を取ったのよ! でも、忘れないで! 私の方が数段勝っていたわ!」
月影千草が割って入る。
「ええ、そうね、亜弓さん。あなたの方が演技術という点ではずっと勝っていた。紅姫も阿古夜もよく掴んでいた、あなたの演技は素晴らしかった。あなたの目の状態を考えれば奇跡としか言えない演技でした……。只一つの点を除いては」
「先生! それは何です。何故、私がこの人に劣るっていうんです!」
きっとした表情で月影千草は姫川亜弓を振り返った。
「あなたの阿古夜には大自然への感謝が無い! 大自然への感謝! それが無ければ阿古夜はやれません。
一連が表現したかったのは、大自然によって我々が生かされているという事、それが表現出来なければ一蓮の魂は表現出来ません。そして、亜弓さん、あなたの芝居にはそれがなかった……」
「くっ……」
思わず拳を固め悔しさを全身に滲ませる姫川亜弓。が次の瞬間、亜弓はふっと息を吐き出していた。深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
「月影先生、よく言って下さいました。目の手術を受け健康を取り戻したら、もう一度、脚本を読み直します。ありがとうございました」
かくして、次代の「紅天女」は決まった。
続く
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