迷犬マスミン    連載第4回 



「はーい、どなた?」

マヤが玄関へ行く。俺も後から付いて行った。

「聖です。マヤ様、大丈夫ですか? 凄い雨です」

聖が紫のバラの花束を持って入ってきた。俺はタッタッタと聖の側に行った。聖が俺に花束をくわえさせる。
聖、ありがとう。助かるよ。
俺は尻尾を振りながらすたすたとマヤに近づいた。マヤに紫のバラを差し出す。

「まあ、マスミン、ふふふ! ありがとう!」

マヤが俺から紫のバラを受け取った。
ああ、感激だ! どれほど、君に直接渡したかっただろう!
マヤが俺の頭を撫でてくれる。
人として渡せたら!人として君に愛されたら……。俺の見果てぬ夢だな。

マヤがメッセージカードを読んでいる。今日は手書きじゃないんだ。

  「面倒な事をお願いして申し訳ありません。
   マスミンを宜しく。
   あなたの紅天女を楽しみにしています。

           あなたのファンより」

えっ! マヤがメッセージーカードに口付けをしている!
俺はマヤをびっくりして見つめた。
涙ぐんでいる。
ええええ!
マヤ、君は「紫のバラの人」に恋をしているのか?
一度も会った事のない人間に?
いや、きっと恋ではないんだ。恋じゃなくて、きっと、ただ会いたいだけなんだ。
世話になった人間だから……。

聖が車から荷物を降ろしてもって来る。
マヤが慌てて涙を拭った。

「聖さん、ごめんなさい、雨の中、荷物を運ばせて! 聖さん、びしょぬれですよ。タオル、持って来ますね」

「あ、お構いなく」

マヤは紫のバラをテーブルに置くと、風呂場に走って行った。タオルを持って戻って来る。聖の髪を拭こうとした。
ひ〜じ〜り〜。
俺はむかむかした。マヤは親切なだけなのだ。それは分かっている。分かっていても、妬ける。

「いえ、本当に、マヤ様、あの、大丈夫ですから」

聖がマヤからタオルを受け取って自分で髪を拭き始める。
俺はマヤの足を鼻でつついた。

「何?、マスミン」

俺は聖の持って来た荷物の方に首を振った。

「あ! そうか、片付けなきゃね」

マヤは紫のバラを花瓶に生けると、食料をキッチンに並べ始めた。
髪を拭いた聖もまた手際よく準備を始める。マヤを手伝っている。
いいなあ、聖。二人で台所に立つ姿は新婚さんみたいだぞ。
妬ける! ああ、妬ける!


夕立は30分ほどして上がった。
一気に涼しい風が吹いて来る。
俺達はテラスにコンロをおいて、バーベキューを始めた。

「マヤ様、その肉、食べごろですよ」

「あたし、さっきいただきましたから今度は聖さんがどうぞ」

だあああ、いいな、いいなあ、俺もマヤと焼き肉を取り合いたい。
俺は餌入れに入れてもらった牛肉をはむはむと噛んだ。うまい。いい肉だ。

「聖さん、あの、『紫のバラの人』はどんな食べ物がお好きなんですか?」

「そうですね、特にお好きといいう物はありません。好き嫌いなくなんでも食べられます」

「もっと『紫のバラの人』のお話をしてくれませんか?」

「マヤ様は『紫のバラの人』がお好きですか?」

マヤが黙った。え、どうした? マヤ? え? ええ?
マヤが顔を真っ赤にしている。やっぱり、マヤ、君は「紫のバラの人」を好きなのか!
信じられない!
聖も唖然とした顔をしている。

「あ、あのマヤ様、私、何か失礼な事をお聞きしましたでしょうか?」

「いえ、いいんです。あたし、あの、なんでもないです。はい、あの、『紫のバラの人』が大好きです。いつも、励まして下さって、劇場を修理して下さったり、あたしが芝居を続けられるように支えてくれて……。感謝してもしきれません。いつか、『紫のバラの人』に直接会って、御礼を言うのが私の夢なんです」

「……、私の主の話をしましょう」

聖、何を話すつもりだ。

「主は、誠実な方です。十代の頃から才気煥発な方だったと聞いています。子供の頃は野球少年だったそうです」

「へえ、今は?」

「申し訳ありませんが、今の話は出来ないんです」

「ふふふ、そうですね。それが、約束ですものね。子供の頃、野球少年だったんですね。それが聞けて凄く嬉しいです」

「マヤ様は、芝居以外にどんな事に興味があるんですか?」

「あたしですか? あたし、ホントにお芝居以外興味がないんです。子供の頃、ラーメン屋の出前の手伝いをしていたんですけど、映画館の前を素通り出来なくて、いっつも怒られていました。初めて見たお芝居は姫川歌子さんの『椿姫』でした。ラーメン屋のお嬢さんがボーイフレンドと一緒に行く筈だったんですけど、年越し蕎麦の出前と引き換えにチケットを譲ってもらったんです」

「出前とですか?」

「はい、お嬢さん、杉子さんって言うんですけど、あたしが出前を全部一人でしたらチケットをくれるっておっしゃって……」

「それで、一人でなさったんですか? 全部?」

「はい」

「それは大変だったでしょう」

「でも、お芝居を観に行きたかったんです、あたし」

「ははは、マヤ様らしい」

マヤ、君の情熱! なんて眩しいんだ!


いつの間にか日が落ちていた。涼しい。空には都会には珍しく星がたくさん見えている。
バーベキューが終わり、聖が後片付けをすると帰り支度をした。

「それではマヤ様、明日の朝、迎えに参ります」

俺達は聖を見送って家に入った。

「さ、マスミン、一緒にテレビ見る?」

マヤは居間のソファに座るとテレビのスィッチを入れた。
俺はマヤの隣に寝そべった。マヤの膝に頭を乗せる。
マヤが無意識に俺の頭を撫でてくれる。
ああ、幸せだ。
俺は人に戻らないといけないんだろうか?
このまま、犬のまま、マヤと暮らせたら。
仕事も義父も何もかも忘れて……。

その夜、俺はマヤと一緒に眠った。
といってもマヤがベッド、俺は床の上だが……。
愛する人の寝息を聞きながら休む。
なんて、幸せなんだ。


夜更け、俺はマヤの気配で目を覚ました。
マヤが月明かりの中、阿古夜の台詞を言っている。

「捨てて下され、名前も過去も
 阿古夜だけのものになってくだされ」

マヤが紫のバラの花を捧げ持つ。
なんて艶やかな、なんて想いのこもった台詞なんだ。
マヤ、君は泣いているのか? 何故だ?
何故、そんなに静かに涙を流すんだ。

クゥーン、クゥーン

「マスミン、慰めてくれるの?」

マヤは俺を抱き締めて泣いた。

「マスミン、おまえも淋しいの? 『紫のバラの人』と離ればなれになって、淋しい?」

俺は、どうやって慰めていいかわからなかった。
俺が人だったら、芝居への情熱を思い出させただろう。或は、怒らせて悲しみを忘れさせただろう……。
だが、犬では……。
俺はただマヤに寄り添うしかなかった。


翌朝、聖が迎えに来た。
俺は、マヤが出て来るまで聖と玄関先で話していた。
聖の調査に拠ると、鷹宮紫織は今日、美術館に行く予定らしい。
俺が聖と話している所にマヤが玄関から出て来た。
その時、マヤが叫んだ。

「この犬、しゃべった!」

マヤの驚きの声が響き渡る。聖がぎょっとした顔をした。

「は? ははは、この犬はとても頭がいいんです。でも、話せませんよ。マヤ様、空耳でしょう」

マヤは不思議そうな顔をした。俺は、くぅーん、くぅーんと甘えて見せた。

「そうですよね、犬がしゃべるわけないですよね。……あたしったら、疲れてるのかなあ」

「ははは、さ、送りましょう。一日、マスミンを預かって下さってありがとうございました」

「いいえ、いいですよ。あたし、『紫のバラの人』にはとってもお世話になっていますから……、お役に立てて嬉しいです。それにマスミンはいい犬でしたよ。あたし、凄く、癒されました」

俺と聖はマヤをアパートまで送って行った。
別れ際、マヤはもう一度俺を抱きしめてくれた。
ああ、マヤ、俺は一生この時を忘れない。



聖と俺はマヤのアパートを後にした。

「聖、紫織さんの所に連れて行ってくれ、人間に戻らないとな」

「は!」

紫織さんは、お付きの者と美術館だ。紫織さんと接触するとすると駐車場か。
俺達は準備を整え美術館の駐車場で紫織さんが来るのを待った。
紫織さんにキスしたらすぐに車に飛びこむ手筈だ。
しばらくすると紫織さんがやってきた。車に近づいてくるのを待つ。来た。
俺は、車から飛び降りると、紫織さんに尻尾を振って近寄った。

「まあ、なあに、この犬!」

紫織さんが顔をしかめる。え? 犬が嫌いだったか? 彼女は……。いや、確か犬、猫を好きだと聞いているぞ。

「滝川、この犬を追っ払って!」

滝川がしっしっとする。
まさか、紫織さんが犬嫌いだったとはな。何故、嘘をついたのだろう。それより、キスだ、キス!
俺は後ろ足で立ち上がって紫織さんの唇を舐めようとした。
だーーーー、ダメ! ダメだ、出来ない。紫織さんの唇を舐めるなんて! いやだ!
紫織さんから離れようとした瞬間! ぱしっ! 紫織さんからはたかれた。

「きゃあ、いや、やめて、なんなのこの犬!」

え? なんだ、この顔は? 紫織さんがこんな不愉快な顔をするとはな。初めて見た。

「滝川! 早くこの犬をなんとかして」

「僕の犬がどうかしましたか?」

スーツをびしっと決めた聖が紫織さんに挨拶する。
髪をオールドバックにして銀縁眼鏡をかけた聖は一見御曹司風だ。

「まあ、あなたの犬ですの。ほほほ、か、かわいいワンちゃんですのね。私、びっくりしてしまって!」

なんだ? この手のひらを返したような態度は?

「いえ、美しいあなたを気に入ったのでしょう」

「まあ、おほほ、お上手ですこと……。あなたも今日の展覧会に興味がお有りですの?」

「ごほん、紫織様、いけません、知らない殿方と親しげに話すのは! さ、参りましょう」

お付きの滝川が紫織を急がせる。
悪い虫でもついたら大変だと思ったらしい。
俺達は車に戻った。

「真澄様、どうされたのです? 紫織様の唇を奪ったら人に戻れるのですよ」

「ああ、わかっている。わかっているんだ。だが……わかっていても、出来なかったんだ。それに、今の紫織さんの態度を見たか? 俺は紫織さんが優しい人だと思っていたが……。あんなに裏表のある人間だとは思わなかった。
聖、何か方法を考えなければ。今の紫織さんの態度を考えると、かなり難しいぞ」

「……承知致しました」

紫織さんとの結婚。
俺は自分自身の反応と紫織さんの反応に、結婚は無理なのではないかと不安になった。
結婚さえすれば、なんとかなると思っていたのだが……。






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