迷犬マスミン    連載第5回 



 さて、どうやって、紫織さんにキスさせるかだな。彼女が俺の頭にキスするぐらいなら俺だって耐えられそうだ。
水城君に頼むか……。
聖にメールを打たせる。
水城君が信じてくれればいいんだが……。
俺は水城君をメールを使って呼び出した。

やがて水城君が俺のマンションにやってきた。
マンションの居間に座った水城君の前に俺は座ると、ゆっくりと水城君に話しかけた。

「み……ず……き……く……ん、お……れ……だ、は……や……み……だ」

水城君がきょろきょろ周りを見回す。
側に立っていた聖に水城君が話しかけた。

「あの、今何かおっしゃいました」

「いいえ」

「でも、確かに今、俺は速水だって……」

「そ……う……だ、俺……だ、目……の……前……の……犬だ」

水城君が気持ち悪そうに俺を見る。それからはっとした顔になった。聖に噛み付く。

「あなた、腹話術師か何かなの。社長は? 社長はどちらにいらっしゃるの?」

「いいえ、違います。僕は、真澄様の個人的な秘書です。聖唐人と申します。社長からあなたのお噂はかねがね……」

「そう、それではあなたが、社長の影の秘書というわけかしら」

「……」

「まあ、いいわ。それで、社長はどちらに?」

「信じられないでしょうが、この犬が真澄様です」

「はあ!」

「セツさん。来て貰えますか?」

聖はセツさんを呼ぶと、水城君に事情を説明した。水城君はにわかに信じられない様子だったが、おれがゆっくりと話し始めると、だんだんはっきりと聞こえて来たらしく、驚きの表情が次第に広がって行った。

「では、社長! 社長は犬になったというんですか?」

「ああ、そうだ、水城君。俺は1日休みを貰った、この体で。速水真澄ではなく……。休日を満喫したよ。これ以上思い残す事はない。俺は人間に戻らないといけない。その為には、紫織さんにキスをして貰う必要があるんだ。紫織さんをここに連れて来てくれないか?」

「承知致しました。しかし、こちらのマンションで宜しいのですか? 失礼ですが、紫織様に事情を説明してもおわかりいただけないと思いますが……」

「ああ、そうだな。彼女のようなタイプに魔法を信じろと言っても無理だろう。それでも、彼女にキスをして貰わないと戻れないんだ」

「だったら、大都芸能の社長室ではいかがでしょう」

「何を言ってる。本社のセキュリティは万全だぞ。犬が入って俺が出て来たらおかしいだろう。ここが一番いいんだ。何、紫織さんにこのマンションの存在を知られたら、別の場所に移ればいいんだ」

「こういうのはいかがでしょう。紫織様をマジックショーに招待するんです。そこで、犬にキスをすると真澄様が現れるという奇術をするわけです」

「なるほど、それなら、紫織さんは俺が最初から隠れていて犬と入れ替わったと思うだろう」

俺達はマジックショーの案を検討。早速、実行に移した。


夕方、水城君に案内されて都内にある小さな劇場に鷹宮紫織がやってきた。
劇場には暗幕が張られ、舞台の前には鷹宮紫織の為の席が設けられている。
変装した聖、シルクハットにフロックコート、黒のマスクを付けている、がエスコート役を引き受ける。
鷹宮紫織が聖に訊ねた。

「あなたは? 真澄様はどちらに?」

「私、今回のショーの案内役を務めさせていただく松本でございます。宜しくお願い致します。速水様はショーの途中で趣向をこらした登場をなさいます。どうかそれまで、ショーをお楽しみ下さい」

「そう、楽しみだわ」

鷹宮紫織は優雅に笑って聖の手を取った。
さすが、鷹宮紫織。どこまでもお嬢様だ。聖に案内されて中央の席につく。ステージの幕が上がった。
本物のマジシャンが一通り芸を披露した。第2幕が上がる前にマジシャン達を帰らせる。
後には水城君と聖、それにセツさんだ。彼女にも手伝ってもらう事にした。
紫織さんの前にはノンアルコールのカクテルが置いてある。第2幕が上がるまで、聖が紫織さんの相手をする。
準備が出来たので、第2幕の幕があがった。
聖が舞台の中央に上がり口上を述べる。

「さて、こちらにいるのはあわれな男!」

ここで、俺の登場だ。俺は舞台の中央にいる聖の隣に走りよる。
聖の後方には大きな箱が置かれている。

「犬にされてしまった男をよみがえらせるのは美女のキス!
 紫織様、どうかこの犬をあわれてと思って、額にキスをしてやっていただけませんか?」

聖が恭しく頭を下げた。

「ま! この犬にキスをすると真澄様が現れるのかしら!
 なんて素敵な趣向でしょう」

鷹宮紫織は、聖に促されて舞台に上がって来る。まったく疑わずに……。
俺の前にくると腰をかがめて、俺の額に……。えっ、なんだ、このためらいは?俺はちらりと紫織さんの顔を見た。
えええ、もの凄く嫌そうな顔をしている。触れたくないのがありありだ。紫織さんは俺にふれるかふれないかでチュッと音をたてた。
あれ? 今、ちゃんとキスしてないぞ。いや、したかな?
俺は衝撃が来ると身構えていた。人から犬になった時の衝撃を覚えている。
聖がさっと鷹宮紫織の視線から俺をマントで隠す。
が、俺はちっとも、人間に戻らない。
聖が俺が人に戻らないのを察して、鷹宮紫織に話かける。

「おや、あわれな男はまだ、犬のようですよ。あなたのキスが足りないようだ。紫織様、もう一度、キスをしてやってくださいませんか?」

「あらあら、わんちゃん。いい子ね。早く真澄様に戻ってね」

鷹宮紫織は、口では適当な事を言っているが顔に浮かんだ表情は凄く嫌そうだ。
聖や水城君からは見えない位置になると途端に嫌そうな表情が浮かぶ。
それでも今度は確かに俺の額にキスをした。CHU!
俺は待った! 待ったが何も起こらない。おかしい! 何故だ?
俺は愕然とした! 俺はセツさんの方へ走りよった。

「あんた、俺を騙したのか?」

「そんな筈はないよ、あの娘さん、あんたの婚約者であんたを心から愛しているのだろう。だったら、元に戻る筈だよ」

「だったら、答えは一つだ。鷹宮紫織は俺を愛してない、愛してないんだ。だから戻らないんだ。水城君、取り繕ってくれ」

秘書の水城は用意しておいた音楽を流すと箱の影から登場した。
席に戻った鷹宮紫織に一礼する。

「犬になった哀れな男は美女のキスで女として生まれ変わりました」

水城秘書がもう一度礼をする。
鷹宮紫織がパンパンパンと拍手をした。

「まあ、真澄様が出て来て下さると思っていましたのに……」

「申し訳ありません。その予定だったのですが、実は、急な仕事が入りまして……」

「いいのよ、今日のショー、楽しめましたわ。わんちゃんも可愛かったし、楽しかったと真澄様にお伝え下さい」

鷹宮紫織はがっかりした表情を浮かべたが、俺が喜ばせようとしたと信じたのだろう。
さほど、落ち込んではいなかった。
しかし、紫織さんが俺を愛していないとは……。
では、彼女が俺を好きだと言う気持ちは一体なんなんだ?
それに彼女の態度。なんだかおかしい。

俺達は鷹宮紫織を送り出してから、劇場のフロアで話し合った。
水城秘書が言う。

「紫織様のお気持ちは恐らく、恋に恋をしているのでしょう」

「恋に恋?」

「ええ、初めての見合い。初めてのデート。真澄様はハンサムでいらっしゃるし、鷹宮翁の孫娘に対して礼を尽くされたのでしょう。それで初めての恋に夢中になったのですわ。あの方が真実の愛に目覚めるのはまだまだ先のようです……」

「それもあるだろうが、実は、君たちからは見えなかっただろうが、彼女の様子がおかしいんだ。俺は紫織さんを優しい人だと思っていたが、どうも違うように思う。俺にキスしようとした時の嫌悪感に満ちた顔。それに、昼間俺を拒絶した時の態度。あんな裏表のある女性だとは思わなかった。聖、紫織さんの身辺調査をしてくれ」

「では、真澄様は紫織さんになにかあると……」

「ああ、そうだ。俺の勘だがな。俺は紫織さんが鷹宮翁の孫娘だから身辺調査をしなかった。もしかしたらとんだお嬢様かもしれない」

「は! 承知しました。調査します」

聖が軽く会釈をする。水城君は逆に心配そうに言う。

「しかし、社長、このままでは……、どうやって戻るんですか?」

「ああ、明後日の契約だろう。それまでに人に戻らないとまずい。あの契約には俺のサインがいる。肉球を押す訳にはいかんからな!」

水城君が、水城君のまじめな顔が一瞬ゆがんだ。
必死になってまじめな顔をしようとして失敗したようだ。とうとう吹き出して笑い出した。
聖も笑い出す。皆、笑い出していた。
俺だけが、憮然として床に腰を降ろしていた。






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