狼の夏 連載第3回
速水は、紫織の件を片付けると、別荘番に、今後、紫織が来ても決して別荘に入れるなと釘をさした。
さらに、別荘に置いておいたマヤとの思い出の品を段ボールにつめ、車につむと東京に向かった。
(ちびちゃん、今、戻るからな。待ってろ。)速水は心の中で、そう吠えた。
(月影先生の所で会った時は元気そうだった。
あの時、どんなにか、俺が紫のバラの人だと言いたかったことか。
君が恋しているように俺も愛しているのだと。
だが、言えなかった。
結局、姫川亜弓の目の病状に終始してしまった。
恋をしている相手からの絶縁状に、さぞ、落ち込んでいるだろう。
俺がもう一度、舞台に向かわせてやる。
待っていろ。)
速水はアクセルを踏み込んだ。
東京に戻ると、聖との待ち合わせ場所に向かった。
段ボールを指定の場所に降ろし、聖が拾うのをバックミラーで確認した。
それから、電話で聖からの報告を受けた。
「マヤ様は、大変な落ち込みようです。黒沼先生も手の施しようがないと言った感じでしばらく稽古を休ませています。ですが、黒沼先生は、逆にその落ち込みを体験させたがっているようにも思えます。」
「どういう事だ。」
「芝居の一場面に阿古夜が一真と引き離されるシーンがあるのですが、そこの所を掴ませたいと思っているように思います。」
「なるほど。」
速水は黒沼らしい事をすると思った。
速水は、聖との会話を打ち切ると、自身黒沼と連絡を取った。
いつもの屋台で黒沼と待ちあわせた速水は、まず、姫川亜弓の件を話した。
それから、マヤの事をそれとなく聞こうとした。
黒沼は、冷や酒をコップで一口飲むと
「姫川の目は治んないのか?」と聞いてきた。
「それが、わからないそうです。近々、演劇協会からなんらかの発表があるでしょう。」
「しかし、姫川が、事故とは。若旦那、一寸先は闇だねえ、人生って。」
そういいながら、黒沼はため息をついた。
「だが、希望もありますよ。北島はどうです?」
「それがなあ、例の紫のバラの人から、昔、北島が送ったアルバムと共に絶縁状が届いてな。
俺も、びっくりしたよ。劇場一個、プレゼントするほどのファンだったのが、いきなりだからな。
すっかり落ち込んでるんだ。だが、俺は、様子を見ようと思ってるんだ。
この芝居の稽古を始めた時も、失恋して落ち込んでいたが、立ち直った。
きっと、今回も立ち直ると信じているんだ。」
「芝居の稽古を始めた時も失恋していたんですか?」
「ああ、そうだ。恐らく、紫のバラの人に失恋したんだ。」
「そんな馬鹿な。何故、一度も会った事のない人に二度も失恋するんです。」
「さあ、そこんところは分からんが。だが、北島の様子から、相手は同じ人間だという事はわかる。
それに、今回の件は、俺はおかしいと思ってるんだ。」
「というと」
「だから、本人が返してきたのではないんじゃないかと思うんだ。」
「それは、どういう。」
「どう考えても、おかしいんだ。さっきも言ったように劇場一個、プレゼントするようなファンだぜ。それが、こんなひどい事するかな?俺はどうも、女の匂いを感じるんだ。今回の件は。」
「・・・」
「やり方が、陰湿なんだよ。俺は、紫のバラの人の近親者か、奥さん辺が誤解して送り返したんじゃないかと思っているんだ。『なによ、女優風情にいれあげてー』ってな感じでな。」
「なるほど。」
「まあ、もう少し、このまま、落ち込ませて折りを見て、俺の方から北島に話すさ。
失恋も芸の肥やしでな。残酷な事をしているのはわかっているんだが。」
速水は、聖に連絡をして誤解をとかせようと思っていたが、黒沼がその内マヤに話すと言うので、少し待つ事にしようと思った。それから、マヤの最初の失恋話が気になったので、
「さきほどの、芝居のけいこを始めた直後の失恋って、どんな様子だったんですか?」と聞いた。
「もうひどくてな、本読みをしながら泣き出すし。立ち稽古で一真が抱きしめようとしたら突き飛ばすし。
全く、芝居にならなかったんだ。
だが、なんとか、桜小路が慰めてくれたよ。
あいつは、北島に惚れているからな。いい、相手役だ。」
「確かに、いい相手役ですね。」速水は、苦い思いを噛み締めながら相づちを打った。
翌日、速水の元に、鷹宮邸から連絡が入った。
紫織が、発作を起こして、また、たおれたのだと言う。
速水は看護師の泉からの報告を受けると、
「今夜、お見舞いに行くとそう伝えてくれ。」
そう言って、速水は電話を切った。
秘書の水城に、今夜のスケジュールの調整を頼むと「今夜は、接待のご予定はございません。」との返事だった。
速水は、夕方まで、仕事をすると、花屋で適当に花束を作ってもらい、鷹宮邸に向かった。
鷹宮邸で歓待されるとやっかいなので、酒を断れるように自分で車を運転していった。
紫織は、速水が見舞いに来ると聞いて、ぞっとした。
(嫌、会いたくない。)
そして、睡眠薬を大急ぎで飲むと、布団にもぐりこんだ。
これで会わずにすむと思うと、ほっとした。
唐突に、紫織は
(婚約を解消しよう。何があっても。あんな事をする人が私の夫だなんて。いやあー!)
心の中で悲鳴をあげた。
速水が鷹宮邸につくと、紫織は既に休んでおり会えないと言われたので、花束を預けて帰る事にした。
速水は、自宅に帰ろうと思ったが、社に残してきた仕事を、今日中に片付けてしまおうと思い直し、大都芸能に戻る事にした。
社に戻ると、マヤがいた。
続く
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