ロマンチックは似合わない 連載第8回
――『マヤ、俺に本物の紅天女を信じさせてくれ』
速水さん、紫のバラの人……。
あの言葉があったから、あたし、自分の紅天女を見つけられたんだ。
……
あたし、舞い上がってた。
あたしの想いを受け止めてくれたからって……
きれいだって言われたからって……
一杯メールをくれたからって……
デートに誘われたからって……
好きだとも、愛しているとも言われてないのに……
あたし達は恋人同士じゃない。
……だったら、どんな関係?
友人?
ううん、ただの芸能社の社長と女優!
はあ〜
速水さんはあたし達の関係をどう思ってるんだろう?
……もしかしたら、速水さんも舞い上がってた?……
ふふふ、そんなの信じられないけど、でも……
ずーっと好きだったアイドルから好きだって言われたら、舞い上がるよね……
速水さんはあたしのスクラップブックを見て、あたしが速水さんに関心を持ってるって知って舞い上がったんだ。
でも、あたしとつきあってどこか違うって思った。
そして、紫織さんを……。
マヤの目から新しい涙が溢れた。
――紫織さんを愛してるって気が付いたんだ……。
速水さん、どうしてあたしの想いを受け止めてくれたの?
マヤの手にぽたぽたと涙が落ちた。マヤは手摺によりかかり下を見た。音を立てて走る車。行き交う人々。自分とは関係なく通り過ぎて行く人々。
――稽古場に行こう。
あそこが、あたしの居場所。
……忘れよう! 速水さんの事は忘れよう。
忘れようと思うと、また、新しい涙が溢れた。
――速水さんは大都芸能の社長、芝居をしていればずっと速水さんと繋がっていられる。
速水さんが他の人と幸せになれるなら、身を引こう。
……
でも、でも、速水さんの手も……、
速水さんの……、何もかもが、他の女の人の物になってしまうなんて耐えられない……
マヤは泣き崩れた。嗚咽が止められない。
携帯が鳴った。いや、さっきから鳴っていたのかもしれない。何も聞こえていなかったマヤにようやく音が戻って来た。
画面を見ると真澄からだ。
――あ! あたし、約束すっぽかしちゃった……。
マヤは携帯のボタンを押した。
「はい、マヤです」
「速水だ。どうした? 約束の時間はとうに過ぎてるぞ!」
「あ、ごめんなさい。あたし、うっかり忘れてて!」
「……、うっかりか……、そこを動くなよ」
いきなり真澄からの電話が切れた。
「は? 動くな? どういう事?」
「こういう事だ」
振り返ると速水真澄が立っていた。
「速水さん! どうして、ここへ?」
マヤは急いで涙を拭いた。
「君は学習しない人間だな。携帯のGPS機能だ。一体、ここで何をしていた?」
「べ、べつに……、思い出にひたってたんです!」
「思い出? 泣くような思い出か?」
「はい……、泣くような思い出なんです! 速水さんには関係ない!」
「……、俺には関係ないか……、里美には話すのか?」
「はあ? 里美さん?」
マヤは何故、ここで里美の名前が出て来るのかわからなかった。
「仲が良さそうだ。初恋の相手は特別だ。里美に会って、俺と別れたくなったか?」
マヤにデートをすっぽかされ、真澄はいらだっていた。携帯に電話をしても出ない上、探してみたら、陸橋の上で泣いていた。真澄は、昔から優しく声をかけて慰めるなどは出来ない。肩を抱き、大丈夫だと励ますなど絶対に出来ないのだ。真澄は自分自身に苛立ち、マヤに心にも無い言葉を投げつけていた。
マヤはしっかりと真澄を見上げて言った。
「別れる? 速水さん、いいえ、速水社長。あたしは只の、大都所属の女優に過ぎません。別れるというのは、付き合っている男女が使う言葉です。今まで、個人的にお付き合いしていた訳ではありません。ただの仕事上のお付き合いでした」
真澄の顔が苦しそうに歪んだ。ゆっくりと息を吐き出した真澄は言った。
「そうか、俺は……。俺はてっきり、君が……。そうだな、俺達はただ、時々、食事をしたり、一緒に芝居をみたりする。それだけだな」
「そうです、だから、別れるなんてないんです。ただの、芸能社の社長と女優ですから……、だから、速水さんが他の人を好きになったっていいんです。結婚する時は言って下さい。お祝いを……」
そこまで言ってマヤは下を向いた。
――駄目だ、仮面が被れない。ここは笑って速水さんにお祝いを上げるって言わなくちゃいけないのに……。
だが、マヤは出来なかった。どうしても、真澄の結婚を祝福する事が出来なかった。
真澄の声が振って来た。
「……、昔、同じ事を言われた……、君から」
マヤは、え?っと思って真澄を見上げた。
「いつ?」
「……覚えてないか? そうだな、随分前だからな。……どこかのビルの駐車場で偶然会った。あの時……。君は俺に見合いをしたかと聞いたんだ」
マヤは思い出した。
――あの時、あたしはまだ子供で、自分の気持ちがなんなのか、わかってなかった。あの時、あたしは、もう……
「……、まるで嫉妬してるみたいだった」
真澄は淋しげに笑った。マヤはぷいと横を向いた。
「そんな昔の事、言われたって……、あたし、子供だったし……」
「ああ、そうだな、子供だった。子供の独占欲か、そんな物だったんだろう……」
真澄は微かにため息をついた。
「昔話はこれくらいにして、食事にいかないか? もともと約束していたんだし……」
マヤは速水を見上げた。真澄が薄く笑っている。
「俺達はただの芸能社の社長と女優だ。食事ぐらい、いいだろう」
「ええ、そうですね、ただの芸能社の社長と女優……」
真澄もマヤも、一言の真実を告げれば、誤解は氷塊し幸せな恋人同士になれた。何故か二人共、互いの深い愛を目の前に立ちすくんでいた。
その日、二人は食事をして、クラブに行った。
マヤはほとんど食事が喉を通らなかった。ましてや酒を飲む気にもなれなかった。酒のグラスを前に固い表情しか見せないマヤ。
そんなマヤを前に真澄もまた考えていた。
――一体何故、マヤは急に態度を変えたのだろう。
今までは楽しそうにしていた。食事を残すマヤなんて初めてだ。
そうとも、デザートを食べないマヤなんてマヤじゃない!
一体、何があった?
何故、泣いていた?
真澄は、理由が思いつかずいらだった。手の中のブランデーを煽る。ブランデーのアルコールに最近の出来事をいろいろと思い出す。マヤへのメールを新しく書く気になれず、つい何通か以前のメールをそのまま送ってしまった。マヤは気が付いただろうか? 大した内容ではなかったから、同じメールを送っても差し支えあるまいと思ったのだが……。そして、真澄は、元々の疑問、マヤが好きなのは「紫のバラの人」で自分ではないのではという疑問。その疑問に立ち返った。そして、何故マヤが「紫のバラの人」の正体を知っていたか?
――鷹宮紫織。
果たして、彼女はマヤに「紫のバラの人」は俺だと言ったのだろうか?
鷹宮紫織の行き先を調べ偶然会ったふりをしてまで接触したのに……。
彼女は俺に会った途端、気絶してしまった。
数ヶ月前、鷹宮紫織は真澄をワンナイトクルーズに誘ったのだ。真澄に一言も言わずに。結婚を前に真澄のよそよそしい態度に一歩踏み出した紫織だった。しかし、これが裏目に出た。真澄はアストリア号の船上で、自分から男をベッドに誘うような女とは結婚出来ないと、鷹宮紫織に婚約解消を言っていた。結局、鷹宮紫織と速水真澄はアストリア号の出港前に船を降りていた。形式上は鷹宮紫織から婚約を解消した形になっている。しかし、実際は真澄からだった。
真澄は鷹宮紫織に北島マヤに「紫のバラの人」の正体を言ったかと聞くつもりだったが、真澄の顔を見た途端真っ青な顔をして倒れた紫織だった。真澄はお付きの滝川に叱責され、やむなく、店を出たのだ。
――マヤと距離を置くつもりだったんだ。ちょうどいいじゃないか……。
俺達はただの芸能社の社長と女優で……。
真澄はマヤをダンスに誘った。
真澄に抱き寄せられたマヤは、はっとした。
――この香り! 紫織さんの……、香水!
だめ、耐えられない!
マヤの手が震えた。
「ごめんなさい、速水さん、あたし、今日はもう帰りたい」
「どうした?」
真澄はマヤの拒絶に独占欲を煽られた。かえって、マヤの手を強く握り、抱く手に力を込めた。
真澄の体に押し付けられれば、押し付けられる程、紫織の香りがマヤの鼻腔に広がる。マヤはステップを踏むのを止めた。
「ごめんなさい、今日は疲れちゃって……」
「……泣いていた理由と関係あるのか?」
マヤは黙った。真澄は立ち尽くすマヤに言った。
「ちょっと待っててくれ」
真澄はマヤから離れ、楽団の指揮者の所へ行った。何事か話し、マヤの元に戻った。
マヤの手を取る。
「君はジルバを踊れるか?」
「は? ジルバですか? えーっと、はい……。パーティ用に習ったので踊れると思います」
「だったら、踊ろう!」
軽快な音楽が流れ始めた。
演奏されたのは「茶色の小瓶」、真澄がリクエストした曲だった。
クラブでジルバは珍しい。しっとりとした大人の時間を過す所だからだ。
テンポの早い曲に乗って、真澄はマヤをくるくると回した。マヤの足は軽やかで、真澄のリードに巧みについて行った。回転する度にマヤのスカートの裾がふわりと舞い上がる。二人は数曲続けてジルバを踊った。さすがに何曲か踊ると二人共、息がはずんだ。ジルバの曲が終わると、フロアからざわめきが起こった。他の客達もテンポの早い曲に息を切らせたようだ。マヤはすっかり笑顔になっていた。屈託のない笑顔を浮かべ真澄を見上げるマヤ。真澄がふっと笑った。
「やっと、いつものチビちゃんに戻ったな」
「え!」
「俺は……、嫌な事があると星を見に行く。君は体を動かした方がいいだろう。芝居の相手はしてやれんがな」
曲はしっとりとしたブルースに変わった。
「さ、踊ろう」
真澄はマヤは抱き寄せた。真澄から汗とたばこの香りがした。いつもの真澄の香り。紫織の香水と入り交じっていたが、マヤは気にならなくなった。
――速水さんはあたしを慰めてくれたんだ。
あたしが、泣いていたから。
……
速水さん……
フロアに流れる曲は「夜のストレンジャー」、主旋律をアルトサックスが歌い上げる。
ロマンチックな夜だった。
普通の男と女なら恋に落ちる。そんな夜だった。
真澄とマヤが共に生きて来た時間の長さが、二人を隔てていた。燃え上がるような情熱の前に静かな愛情が二人を包んでいた。
「マヤ……」
マヤは目を上げた。真澄のしっとりとした視線に出会う。
「マヤと呼んでいいか? 恋人でもないのに名前を呼んでもいいだろうか?」
「ええ、構いません。もう、チビちゃんではありませんから……」
「そうだな、もう、チビちゃんじゃない」
アルトサックスのむせび泣くような響きが二人の沈黙を埋める。
マヤと距離を置きたいと思ったのは真澄だった。「紫のバラの人」としてではなく、速水真澄として愛されたい。
――このまま、恋人同士のふりを続けて行けば、あるいは、本当の恋人同士になれるだろうか?
少なくとも彼女は俺を「紫のバラの人」として感謝し好いてくれている。
……
これ以上、何を望む。
彼女の愛情、「紫のバラの人」への愛情は俺の物だ。
そうとも、少なくとも、あの夏の別荘で俺に抱きついて来た「無垢な愛」は俺の物だ。
俺の物だ、マヤ……
真澄はマヤの手を強く握った。腰に回した手に力を込め、抱き寄せる。
――マヤに口付けしたい。男として彼女を愛したい。
ひと際高く長くアルトサックスがむせび泣く。
夜は更けて行った。
続く
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