囚われて    連載第2回 




 鷹宮紫織は、自分の肉体という牢獄の中で、日々を過していた。微睡(まどろ)みと覚醒。時間がどれほど経ったのかわからなかった。いろいろな声が聞こえた。

「お綺麗な方なのにお気の毒ですね」

看護師の声が聞こえる。体を拭いてくれている。

「ええ、そうね……。それに婚約者の方もお気の毒よね。一日、本を読まれて……。こういう状態になったら、大抵、婚約を解消されるのにね。よほど、愛しているのね……」

「……そうでしょうか?」

紫織は若い看護師の声にはっとした。

「何? 何故、そう思うの?」

「だって、この傷……」

「だめよ、滅多な事は言わない方がいいわ」

やがて、紫織は体が持ち上げられるのを感じた。

紫織は理学療法室でトランポリンに乗せられ体を揺すられる療法を施された。その間、バイオリンの調べが続いている。恐らく、真澄が手配したのだろうと紫織は思った。医師の声が聞こえる。

「……人間の脳は、人間が二本足で歩くようになって発達したと言われています。四つ足より二本足の方が縦に振動を受けるんです。そこで、適度な振動を脳に与えて、脳を直接、刺激して活性化させようと言うのがこの療法です……。抱き上げて揺すってやるのもいいですよ」

「僕がやりましょう」

(真澄様!)

紫織は真澄に抱きかかえられるのを感じた。幾つかの手が添えられる。紫織の鼻腔に真澄の香りが広がった。真澄の体温も……。ゆっくりと上下に揺すられる。真澄の息づかいがわかった。やがて苦しそうになる。重いのだろう。それでも、真澄はやめない。紫織は涙が出て来た。

――私、元気になりたい。真澄様に感謝していると伝えたい。

「先生、紫織さんの目から涙が……」

「ああ、それは、何かの条件反射でしょう。植物状態でも涙が流れる事はよくあります」

――違う、違うの! 私は起きているわ。誰か気がついて!

紫織は誰にも気づかれない叫びを上げていた。


紫織はだんだん長く目覚めているようになって行った。意識が起きている時間が長くなればなるほど、体を動かせない苦痛は堪え難くなって行く。下の世話を他人にして貰う屈辱。体は拭いて貰えるが入浴はして貰えない。そんな状態の自分の側に最愛の真澄がいる。好きな人には決して見せたくない姿を真澄に晒さなければならない。辛い。紫織は病気とはいえ真澄にそんな自分を見られるのが辛かった。

或る夜、紫織は肉体に閉じ込められた苦しさを嘆いていた。何も出来ないまま時間が流れる。そして、いつの間にかうとうとと眠っていた。そして、人の気配で目覚めた。声がする。知らない男の声だ。

「……あなたは美しい。まるで眠り姫のようだ。いや、眠り姫そのままだ。あなたが目覚めなければいい。そしたら、あなたはずっとこのまま、僕の物だ……」

男はくどくどと紫織をどんなに好きか話し始めた。

「……あの男はあなたに相応しくない。聞けば、婚約を解消すると言ったそうじゃないですか、そんな男にあなたを任せられない……」

――真澄様をけなさないで……。何もわかってないくせに。

そして……。 紫織は手に唇が押し当てられるのを感じた。

――嫌! やめて! 誰? 誰なの?

男の出て行く気配。紫織はぞっとした。紫織は男の声に聞き覚えがあった。だが、誰だったか思い出せない。それに、何故、自分は病室に一人にされているのだろうと思った。滝川が付き添っていてくれる筈なのに。滝川がいない時は別の者が付き添う手筈になっている。それなのに……。やがて、また、人が入ってくる気配がした。滝川だ。いつもの香の香りがした。咳きをしている。風邪でもひいたのかしら。滝川が隣のベッドに潜り込む気配がした。紫織はほっとした。ほっとすると同時に意識は闇に落ちて行った。

それからも見知らぬ男は、深夜、滝川が席を外すとやって来た。そして、恋心を打ち明けて去って行く。紫織は恐怖でパニックになりそうだった。

――嫌、誰か助けて、ここから出して!

紫織は体を動かそうと必死だった。あの男はいつか、私にもっと触ってくる。その内一線を越えるだろう。嫌、いやー。


或る日、父親の声を紫織は聞いた。

「速水君、明日は『紅天女』試演の日だ。だが、君は見に行ってはいけないよ。試演の日も一日、紫織に本を読むんだ。それが君の仕事だからね。だが、もし、紫織が目覚めたら君を自由にしてやろう」

真澄の返事は聞こえない。誰かが出て行く音。

「……紫織さん、お願いだ。目を覚ましてくれ。頼む」

――真澄様、真澄様は試演をご覧になりたいのね。ああ、それで……。私を一生懸命看護してくださるのも、その為……。きっと、そうなのね。いや、いやよ、私は目覚めないわ。会わせない、会わせないわ、北島マヤに!

紫織は嫉妬で身も心も焼けるようだった。が、気持ちが静まると、もし、動けるようになったら、今度こそ、真澄とうまくやって行こうと思った。嫉妬と感謝の気持ちの間で紫織の心は振り子のように揺れ動いた。

――真澄様は元気になったら結婚式を上げようって言って下さった。婚約解消で自殺しようとした私を見て、お気が変わられたのかもしれない。もし、動けるようになったら……、そしたら、真っ先に御礼を言うわ。一生懸命看病して下さった御礼を……。ああ、動けるようになりたい。

紫織は混沌の中に再び落ちて行った。紫織はいい争う声で目覚めた。

「紫織さんを試演会場へ連れて行きます」

「君はこんな紫織を他人の前に晒すつもりか? 何を考えている」

「紫織さんも見たいと言っていました。連れて行きます。試演会場には特別席を設けさせています。それに、紫織さんは目覚めないだけで、体に異常はありません。病室から連れ出して刺激を与えれば目覚めるかもしれないじゃないですか!」

目覚めるかもしれない。紫織の父親はその一言に折れた。
鷹宮紫織は試演会場の特別席に移された。真澄が付き添う。やがて、開演。黒沼版「紅天女」の幕が上がった。

紫織の耳にマヤの声が届いた。声だけ聞いていると、姫神、村娘の阿古夜、神女の阿古夜、まるで何人もいるようだ。見たい。大っ嫌いな女だけど、芝居は見てみたい。梅の谷で見た月影千草の演技は素晴らしかった。あの続きが見たい。クライマックスがどうなるか見てみたい。目が開いたら。だが、開かなかった。それでも、台詞だけでも、筋はわかった。
愛しながら、梅の樹を切る一真。切られる阿古夜。紫織は感激していた。やがて、幕が降りた。一瞬の静寂。会場を揺るがすような喝采。紫織もまた、感激していた。
黒沼版の次は休憩を挟んで小野寺版だ。真澄の声が聞こえる。看護師に話しかけている。

「休憩を取るのでしばらく外しますが、後は宜しく」

――いや、真澄様! 行かないで! マヤさんの所に行くのね。いや、行かないで! 行っては嫌!

「……ぐ……う……う」

――声、声がでるわ!

だが、試演会場の喧噪にかき消され、看護師の耳には届かない。紫織は目を開けようとした。瞼が開いた。眩しい。また閉じる。そこで、力つきた。紫織はまたしても闇に中に沈んで行った。





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