囚われて    連載第3回 




 次に紫織の意識が戻ったのは病室だった。紫織はいつもの消毒薬の匂いで病室に戻ったとわかった。男の声が聞こえる。

「僕はもう我慢出来ない。今日、あなたは外に運ばれて行った。僕は転院するのかと思った。あなたを失うくらいなら、一度だけ思いを遂げたい。あなたが好きなんだ」

男が口を塞いだ。キスをしてきた。男の舌が口の中に入って来るのがわかる。

――いや! 何をするの! いや! やめて! 助けて! 滝川! 滝川!

男は紫織の唇を堪能すると首筋にキスをし始めた。

「だあー」

紫織は声を上げていた。大声を!あまりの恐怖に声が出たのだ。目も開いた。暗闇が幸いした。眩しくない。目の前に男がいる。男がぎょっとしているのがわかる。男の手が伸びる。顔のすぐ側に。カチッ! 次の瞬間、男が逃げ出した。病室のドアが開かれ廊下の明り越しに男のシルエットが見えた。背の低い太った男。紫織はそのまま、声を出し続けた。

「ああ、だ、だ、だああ、ああ、あー」

まだ、舌がまわらないが声を出し続けた。体を動かそうとした。動けない。が、首が動いた。紫織は必死だった。

――ナースコール! ナースコール!

必死に手を動かそうとした。長い間寝たきりになっていた体は筋肉が固まっていて、なかなか動かない。が、幸いな事にナースコールのスィッチは紫織の顔のすぐ側に落ちていた。必死に首を動かし頭の重さでボタンを押そうとした。一度、二度、、、。何度も頭を当てるがボタンは押せない。足音が聞こえた。さっきの男? いや!

「鷹宮さん! 気がつかれたのですね!」

看護師の驚いた声。部屋の灯りがつけられる。眩しい。

「お嬢様! お嬢様、お気がつかれたのですね」

紫織はそっと目を開けた。ぼんやりと滝川の顔が見える。

「た……、たき……」

「はい……、はい、お嬢様、滝川でございますよ。滝川は……」

滝川が泣き出した。

やがて、医者がやってきた。医者は診察を終えると長い間寝たきりだったので、リハビリを受けるようにと言った。興奮している紫織を診て、医者は目覚めた事によるショックだろうと考え鎮静剤を投与しようとした。が、紫織は首を振って拒んだ。紫織は滝川の着物の袖を掴み必死に訴えた。

「ひ、ひとり、に、しない、で……」

――1人になるとあの男が戻ってくるかもしれない。嫌、怖い。

滝川は紫織の口元に耳をあて、紫織の言葉を必死に聞き取る。

「大丈夫でございますよ。お嬢様……。滝川がついております」

それから、夜明けまで、紫織は滝川の手を握って一夜を明かした。


翌朝、鷹宮紫織はゆっくりとであるが話せるようになっていた。そして、滝川に決して夜一人にしないように言った。

――言えない。見ず知らずの男に唇を奪われたなんて……。真澄様に知られたら……。ますます嫌われてしまう……。

面会時間になると真澄がやって来た。両親や鷹宮翁も来ていたが、すでに帰った後だった。

「紫織さん、回復おめでとうございます」

紫織は真澄の姿に驚愕した。真澄の端整な顔が、肉はそげ落ち、肌は土気色になっている。髪に白い物があり、10歳は更けて見える。

――なんて面変わりなさって……。お顔の色がひどい。それに随分痩せられた。

「ありがとう、ございま、す。ますみ、さま、あの、かんびょう、うれし、かった、ほんをよむ、お、こえが、きこえて、ました」

「では、意識はあったのですか?」

「はい、で、も、からだが、うごかせなくて、目もあけ、られず、こえもだせなかった」

紫織は溢れそうになる涙を瞬きで誤魔化した。

「では、時々、泣いていたのは本当に泣いていたのですか? 医者は条件反射だと言っていましたが……」

「はい」

「そうですか、僕は……、紫織さん、僕はあなたが死ぬ程思い詰めるとは思っていなかった。申し訳なかった。どうか、許してほしい」

紫織は何と言っていいかわからなかった。

「……。ますみさま……、あの……、ますみさまは、どこか、おわるいのですか? おかおのいろが……」

「え? ……いえ、仕事が忙しいので……、少し痩せました。ちょうどいい、ダイエットです」

真澄はそう言って微かに笑った。
看護師が病室のドアを開けリハビリの時間だと告げる。それを期に、真澄は挨拶をすると帰って行った。紫織は真澄が帰って行くのが寂しかった。思えば、体が動かせない間は真澄の声を一日聞いて過した。これほどの至福の時はなかったように思う。

紫織は体が動かせるようになるとめきめき回復していった。もともと、自傷した怪我以外は悪い所のなかった紫織である。持病の貧血で疲れやすくはあったが、手厚い看護でほどなく普通の生活が出来るようになった。そして、夜、あの男は二度と現れなかった。紫織は一抹の寂しさを覚えた。考えてみれば、婚約者の速水からも、あのような切々とした恋心を打ち明けられた事はない。あの男が最後にした行為はおぞましい事だったが、紫織の枕元で毎晩、愛の言葉を囁き続けてくれたのも確かだ。

――あの男、ナースコールのスィッチを押して逃げたのだわ。
  そうでなければ、看護師が来る筈がない。
  あの男は私が目覚めたので、自身の危険を省みず私の為に看護師を呼んでくれたのだわ。
  私の為に……。
  ……。
  恋とは、あのような物なのだろう……。
  真澄様は……。私に恋をした事は一度も無いのだわ。

紫織はため息をついた。

――……ただ、私に親切にして下さっただけ……。病弱な私に……。それを愛と勘違いしたのは私。
  今、やっとわかった。
  ……
  これからどうしたらいいのかしら。
  私は……、私はどうしたら?

真澄は、毎日、面会時間に姿を現した。15分ほど話して帰って行く。大抵、当たり障りのない話題だ。
だが、真澄の顔色は悪く相変わらず痩せている。ふと、紫織は思った。

――真澄様は眠っていらっしゃらないのではないかしら?
  あんなにやつれられて……。
  真澄様は私が自殺しようとしたので、婚約解消を諦められたのだわ。

紫織は真澄の言葉を思い出した。

  『馬鹿な事をしたくなったんです。紫織さん。
   今まで自分が幸せになりたいなど考えたこともなかった。
   僕は幸せの意味すらわかっていなかったのかもしれない……』

  『僕ではあなたを幸せに出来ない。
   紫織さん……。
   僕もまた……』

――真澄様は私と結婚されるおつもりなのだわ。ご自分の幸せに背を向けて……。
  

鷹宮紫織は速水真澄に手紙を書いた。





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