白鳥は蒼穹にはばたく   連載第14回 




 演劇協会会長の別邸。
月影千草が待つ応接間に源三の案内で通された麗とマヤは、ソファに座っている先客に気がついた。
速水である。マヤにとって嬉しい邂逅だったが、麗や月影千草の前である。素直に速水の胸に飛び込むわけにはいかない。

「速水さん!」

マヤは大きく目を見張って速水を見つめた。
速水もまた、マヤに会って胸が高鳴った。思わず口元が綻ぶ。

「やあ、ちびちゃん、先生のお見舞いか?」

「ええ、あの……」

マヤはうまく応えられない。麗が代わりに返事をする。

「婚約を解消されたそうですね、速水さん」

速水は口元を引き締め、いつものポーカーフェイスに戻った。

「おや、耳が早いな、誰からきいたんだ?」

「鷹宮紫織さんから直接。
 紫織さんから、あなたが何があっても上演権を手に入れようとしているから気をつけろと言われまして」

「ほう、それで」

「紫織さんには、速水さんが上演権を持っても演じられる女優がいないから絵に書いた餅だって言ったんですけどね。
 でも、気になって……。
 今日、先生に確認しようと思ってきたんです」

麗の話を聞いた月影千草が凛とした声で答えた。

「まあ、あなた達、心配させたわね。
 でも、大丈夫よ。
 上演権は、私の手元にあるわ。
 そうでしょう、真澄さん。
 今、紅天女上演の件で真澄さんと話していた所なのよ。もう、話は終わったわ」

「先生、それでは、試演の時に改めてお会いしましょう。
 ちびちゃんも、がんばれよ、期待しているからな」

「速水さん、あたし、もう子供じゃありません。
 速水さんのいやみ虫、げじげじ!」

マヤはそう言ったものの、以前の迫力がない。

「くっくっくっく、どうした?
 今日は、元気が無いじゃないか?」

マヤは、速水に軽口をたたかれたので思いっきり大声を出した。

「あ、あなたなんて、あなたなんて、大っきらい!」

屋敷中に響き渡る。麗も源造も月影千草も思わずのけぞる。

「はーっはっはっはっは!
 いや、いいね、もっと言ってくれ。
 君の悪口を聞くと元気がでるよ」

速水は、笑いながらそう言うとマヤの髪をぐしゃぐしゃとなでて、帰って行った。
速水が行ってしまうのを待って青木麗が早速、千草に聞く。

「先生、速水真澄から何か脅されたんですか?」

「あなた達は心配しなくていいわ。
 彼は脅しに来たのではなく、交渉に来ただけですからね」

その時、千草はマヤの様子に気がついた。
心ここに有らずという風情で真澄が去った方を見ている。

「マヤ、どうしたの?」

「あの、あの、先生、あたし、速水さんに用事が……」

そう言うなりマヤは駆け出していた。

(速水さん、ああ、速水さん、会いたい、ちょっとでいい。話したい。)

マヤは、思いっきり走っていた。別邸の長い廊下を抜け玄関で靴をひっかける。
門を抜け、もう行ってしまったかと思って見回した。
まだ、いた。駐車場で、車に乗り込んでいるのが見える。
マヤは走った。心の中で叫ぶ。

(待って、待って、速水さん)

速水は既に車に乗りこみ車を出そうとしていたが、マヤに気が付き、車のウィンドウを開けた。

「どうした? ちびちゃん。
 息せき切って……。
 走ると転ぶぞ!」

速水がくすくす笑いながら軽口をたたく。

「もう、速水さんのいやみ虫!」

マヤは、はあはあと肩で息をしている。

「少し、話したくて……。
 あの、あの、仕事の方は、大丈夫ですか?
 婚約解消して……」

「うん?
 ああ、大丈夫だ。心配させたな。
 ちびちゃん、ここは人目がある。
 先生の所に帰りなさい。
 今度会うのは試演が終わってからだ」

そう言って、車窓を閉めようとした。
が、思い返したようにマヤに言った。

「そうだな、今夜、携帯に電話しよう。
 話せるか?」

「ええ、速水さん! 10時過ぎなら」

マヤは嬉しそうに応えた。

「そうか、じゃあ、電話しよう」

マヤと速水の視線がからむ。
二人共、口に出せない想いを瞳にこめる。
速水は名残惜しそうに車を発進させた。
が、速水は車を駐車場から出そうとして急に車を止めるともう一度、振り向いた。

「マヤ!」

マヤが駆け寄る。速水が声をひそめて言った。

「マヤ、落ち着いてよく聞け!
 もう一度、俺に大声で『大っきらい!』って叫んで、屋敷に駆け込め!
 後ろを振り返るな。紫織さんがいる」

マヤは、顔色をかえて体を固くした。

「さあ、早く!」

マヤは大声で叫んだ。

「速水さんなんて、大っきらい!」

必死に走って屋敷に駆け込む。
速水はマヤが屋敷に入るのを見届けるとゆっくり車を走らせ、紫織の車の横につけた。
速水が車を横につけると、紫織の乗っていた車の窓が開いた。

「真澄様、こんな所でお会い出来るとは思いませんでしたわ」

「こちらこそ、元婚約者殿。
 こんな所で何をしているんです?」

「ほほ、何も……。
 偶然ですわ。
 あの子、マヤさん。
 アストリア号に乗っていたのですってね。
 あなたと一緒だったんじゃありませんの?」

「さあ、広い船でしたからね。
 それとも、あなたが北島をわざわざ乗せてくれたんですか?」

「わ、私がそんな事する筈がないじゃありませんか!」

紫織は感情的になったが、すぐに穏やかに話しかけた。

「真澄様、よければ、私とお茶でもいかがです?」

紫織は婉然と笑って速水を誘う。
唇が両側に引き延ばされ口角が上がり綺麗なカーブを描いている。
その美しい唇は赤い。禍々しい赤だ。
速水は紫織の唇はこんなに赤かったかと訝しく思った。

「いえ、これから仕事がありますので。
 ところで、いつまで、ここにいるつもりです?」

「ほほ、もう、帰る所ですわ。
 真澄様にお会いできた事ですし……。
 そうそう、桜小路さんに聞きましたわ。
 マヤさん、『紫のバラの人』に恋をしているのですって。
 『紫のバラの人』の正体を知ったらどうするかしら」

そう言い捨てると、紫織は車の窓をしめ、静かに走り去った。

(紫織さんは、マヤが紫のバラの人の正体を知っているとは思ってないんだ。
 マヤに『紫のバラの人』の正体を言えばマヤにダメージを与えられると思っている。
 ほおって置くか、何も出来んとは思うが……)

速水は、紫織がいなくなるのを待って車をだした。
速水は嫌な予感がした。それは、紫織の口紅がひどく赤く感じたからかもしれない。
いや、にーっと笑った紫織の赤い唇が、何かを連想させた。美しい毒蛇。
速水は危険を感じ取っていた。



紫織は、マヤを貶めても、速水にどんなに媚を売っても、速水の愛を得る事が出来ないとわかっていた。
わかっていたが心が拒否していた。
それが紫織を狂気に追い込んだ。
心が癒されるのは、マヤを痛めつけた時だけ。マヤが血をはき泣き叫ぶのを聞きたい。
そうすれば心おきなく死ねる。速水と共に死出の旅路に出られる。

(真澄様、もうすぐ、私達は一つになるのですわ。死の床で)

紫織は、車のバックシートに身を深々と沈めながらハンドバックの中の懐剣の重さを確かめていた。



マヤは屋敷の門の陰からこっそりと見ていた。2台の車が行ってしまうのを。
マヤは紫織がこわかった。
マヤは紫織がどんなに速水を愛しているか知っていた。

(先に婚約していたのは紫織さんだったのに。
 紫織さんから速水さんを奪ったのはあたしだ。
 ごめんなさい。紫織さん)

マヤは心の中で詫びた。

(あたし、きっと、速水さんと幸せになる。
 きっと、速水さんを幸せにする。
 だから許して……)

マヤは心の中で紫織に深々と頭を下げた。







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