白鳥は蒼穹にはばたく   連載第15回 




 月影千草を見舞いに行ったその夜。マヤの元に速水から電話があった。
マヤは、携帯を持って河原へと急いだ。土手に座り携帯を握りしめる。
ここなら誰もいない。
気兼ねなく話せる。
携帯から流れて来る速水の声。耳元で響く深く豊かな男らしい声。
速水の声はマヤの胸を熱くする。
マヤの心は速水への想いで一杯になる。
やがて耳元の携帯が形を無くしあたかも速水が側に座っているような錯覚にマヤは陥った。
すぐそばに速水がいる。
そんな幻想にどっぷりと浸っていた時、マヤの背後に近づく人影があった。

「マヤちゃん!」

「桜小路君!」

マヤは飛び上がった。
誰もいないと思っていたのだ。マヤはいきなり現実に引き戻され、あわてて携帯を切ろうとした。
携帯から速水の声が聞こえて来る。

「桜小路がそこにいるのか?」

速水は恋敵の出現に舌打ちをしたくなった。

「うん、今、来たみたい、ちょっと待ってて」

桜小路が思い詰めた表情でじっとマヤを見つめている。

「マヤちゃん、ごめん、携帯で話し中に。でも、ずっと話してるから」

マヤは立ち上がりながら、衣服についた草をはらった。

「桜小路君、何か用事? ちょっと待ってて」

マヤは、桜小路から離れると声を潜めた。

「ごめんなさい。今日はこれで」

「マヤ、桜小路にはちゃんと言った方がいいぞ。
 中途半端な返事は期待を持たせる。
 桜小路と話が終わったら電話してくれ」

そう言って速水は携帯を切った。
マヤは、切れた携帯をしばらく見ていた。

「マヤちゃん?」

桜小路がしびれを切らして話しかけて来た。

「あ、ごめん、桜小路君。なに? こんな時間に」

「えっと、この頃、一緒に帰れないだろ。
 少し話したくなってさ。
 誰と話してたの?」

「あの、あの、えっと、源造さん!
 月影先生の容態を聞いてたの」

「そう、随分、長い電話だったね」

「うん、梅の谷で練習してた頃の思い出話に花が咲いて!」

マヤは笑って誤摩化した。
桜小路には見えなかった。マヤの頬がピンク色に上気しているのが。
恋人との会話に心が舞い上がり、目は潤み唇はほんのりと赤くなっているのが、桜小路には見えなかった。
街灯は遠く河原は薄やみに包まれマヤの表情を隠していた。
もし、見えていたら桜小路は一目で一真に恋をしている阿古夜が目の前に現れたと思っただろう。

「ねえ、マヤちゃん。以前の返事、試演まで待ってくれって言ってたけど、まだ、だめかな?」

「うん、桜小路君、あたし、今、試演の事しか考えられない。
 舞台の上では魂の片割れになる。
 けど、舞台を降りたら友達でいてほしい。
 お願い、桜小路君」

マヤは必死だった。試演を前に桜小路との仲がおかしくなっては困る。
だからと言って期待を持たせるわけにはいかない。

「それは、好きな人がいるから?
 そんなに『紫のバラの人』が好きなの?」

「桜小路君! どうしてそれを?」

「マヤちゃんが、以前、陸橋の所で紫のバラに口付けしているのを見て、そう思ったんだ」

「そう、知ってたの。
 ごめんなさい。あたし、好きなの、『紫のバラの人』が……」

「マヤちゃん、どうして、一度も会った事がない人に恋ができるの?
 もしかして、相手が誰かわかってるとか?」

「桜小路君、どうして、そんな事、聞くの?」

「鷹宮紫織さんと、話す機会があって……。
 で、マヤちゃんが『紫のバラの人』に恋をしてるって言ったら、相手が誰かわからずに恋をするのはおかしいって言われてね。
 もしかしたら、正体を知ってるんじゃないかって……」

「あたし、『紫のバラの人』が誰か知らない。
 けど、『紫のバラの人』は今まで、たくさんメッセージをくれた。
 あたしを高校に行かせてくれた。
 困ったときに、いっぱい助けてくれた。
 何年もずっと変わらずに……。
 あたし、『紫のバラの人』の大きな愛に支えられてここまで来たの。
 それだけで、恋をしたらおかしい?」

「おかしくはないけど……」

桜小路は言い淀んだ。

「あたし……、あたしね。
 母さんからみそっかすって言われて育ったの。
 『紫のバラの人』はあたしの初めての舞台を見て、ファンになってくれた。
 みそっかすって言われてたあたしの最初のファンなの。
 あたし、嬉しかった!
 高校に行かせてくれた時も、どこかの誰かがあたしの事心配してくれてるって、それが嬉しかった。
 高校に行かせてくれた事より、心配してくれた事が嬉しかったの。
 あたし、大人になって、やっと気がついたの。
 自分が誰を愛しているかわかったの。
 『紫のバラの人』だった。
 ごめんね、桜小路君」

「でも、『紫のバラの人』が誰かわからないんだろう。
 相手が、女の人や、老人だったらどうするの?」

「ふふ、あのね、男の人っていうのはわかってるの。
 メッセージに書かれている言葉は女の人の言葉じゃない。
 だから、男の人だってわかる。
 年齢はわからないけど……」

マヤは桜小路に嘘を付くのが心苦しかった。
マヤは、下を向き、自分の足の先を見つめた。
桜小路はマヤのそんな態度を、寂しく見ていた。

「マヤちゃん、僕と付き合えないなら、付き合えないって言ってくれていいんだよ。
 僕に返事をしない為に『紫のバラの人』の話をしてるみたいだ」

「違う、桜小路君、お願い、わかって!
 それに、あたし、最初から試演まで待ってって言ってる。
 お願い、桜小路君。
 試演まで、試演が終わるまで今まで通りでいて!」

「……そうだね、マヤちゃん、ごめん、僕が悪かったよ。
 困らせて、ごめん。
 僕のイルカも寂しがってるけど、後少しだし……。
 今日は遅いし、僕、帰るよ、ごめん、マヤちゃん、なんか、焦っちゃって……」

「ううん、いいの、わかってくれたらいいの」

「じゃあ、また、明日!」

マヤは、桜小路が行ってしまうのを見送った。

(桜小路君。ごめんね。
 あたしは魂の片割れに出会ってしまったの。
 あなたの気持ちには応えられない)

マヤは携帯を取り出すと、早速、速水に電話をした。
呼び出し音が鳴る間もなく速水の声がひびいた。

「マヤ、どうだった?」

マヤは桜小路との話し合いの顛末を話した。
速水は、それを聞くと安心したようだった。
二人は翌日も同じ時間に電話しようと言って携帯を切った。


マヤは知らなかった。
速水の机の上の灰皿に山のように煙草が積み上がっているのを。
速水が、携帯を持ったまま、部屋の中をうろうろと歩き回り、いっそ、車で駆けつけようかと車のキーを握りしめてはやめ、やめては握りしめるという動作を繰り返していたのを。
速水がマヤと桜小路の妄想に気が狂いそうだったのを。
マヤは知らない。


一方、麗は、桜小路のバイクの音が聞こえたので、てっきりマヤは桜小路に会いに行ったと思っていた。

「マヤ、桜小路君とデートかい?
 熱いねえ!」

麗の冷やかしにマヤは、

「もう、麗ったらそうじゃないって」

と言ったものの、速水との仲を話すわけにもいかず、早く寝ないとと口の中でもごもご言って布団に潜り込んだ。




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