白鳥は蒼穹にはばたく   連載第17回 




 「マヤ 逃げろ!」

その声にマヤは反射的に前に飛び出した。

「待って! マヤさん」

紫織の声が飛ぶ。
マヤは呪縛にかかったように立ち止まった。
おそるおそる振り返る。

「マヤさん、どうして、逃げるの。
 真澄様が何か言ったのかしら?
 ほほほ、怖がらなくていいのよ。
 私、あなたと少しお話したいだけなの」

紫織はゆっくりとマヤに近づいてくる。

「……」

マヤは携帯を握りしめたまま、黙って立ち尽くした。
逃げようと思うが、足が動かない。
紫織はじっとマヤを見ている。その距離、3m。
速水は携帯に向かって叫んでいた。

「マヤ、携帯を切るな、すぐ、そっちへ行く」

急いで車に飛び乗り、マヤの元へと急ぐ。橋が遠い。

「マヤさん、明日は試演ね。
 あなたは、ライバルの姫川亜弓さんが、今、どうなっているか知っているかしら」

「どういう意味です?」

「姫川さんはね、目を悪くしたの。ほとんど見えない状態なのよ」

「亜弓さんが? 嘘! そんなの信じられない」

「いいえ、本当よ。信じられないでしょうけどね。
 で、私、思ったの。
 片方が目の悪いハンデを追うのに、片方はそのままでいいのかって」

「!……」

「ね、そう思うでしょう。
 あなたも目が悪くならないとフェアじゃないわ」

「私に目を悪くなれと、言うんですか?」

「あら、ものわかりの良い事! ほほほ。
 そうよ、あなたも目が悪くならないといけないの。
 ここに、目薬があるわ」

そう言って、ハンドバックの中から、目薬の瓶を取り出した。
マヤに近づき、マヤの手から、携帯を払い落し、その手に強引に目薬を持たせる。
紫織の顔がマヤの目前にある。

「これを目にさせば、あなたの目は潰れて姫川さんと同じになれるわ。
 ね、同じ目の悪い者同士で戦ってこそ、フェアだと思わない?」

「あたし、そうは思いません。
 亜弓さんはそんなの望まない!
 あたしに全力で勝負しろって言うに決まってる」

紫織はふっと笑った。さらに、ほほほと笑い出した。
マヤは思わず、後ずさった。

「姫川さんが何と言うかなんて、そんな事!
 どうでもいいんですの。
 私がフェアではないと言っているのです。
 さあ、その目薬をさすのです。
 ささなければ……」

紫織はハンドバックから懐剣を取り出した。
すらりと、抜き放つ。
その刃を自身の首にあてた。

「さあ、その目薬を目にさしなさい。
 そうしなければ、私はここで死にます」

「紫織さん!」

「さあ、早く! 私がここで死んだらどうなるかしら。
 明日の試演は中止ね。
 姫川さんも気の毒に、失明より試演を選んだのにそれが中止になるなんて!」

紫織はそう言って懐剣をさらに首に押しあてる。

「待って!」

マヤが叫んだ。

「待って! 紫織さん、あたし、目薬をさすから!」

「まあ、ものわかりのいい事」

マヤは、震える手で瓶の蓋を取った。
瓶の中身が数滴、手にこぼれる。

「っつ!」

痛い!
マヤはその痛みに薬を使うのをためらった。
2度と芝居が出来なくなる。
だけど、この薬を目にささないと紫織さんが死んでしまう。
マヤには、速水を紫織から奪った負い目があった。
死なせられない。
だけど……。

「紫織さん、あたし、お芝居が好き!
 ずっと、お芝居がしたいの。
 お願い、許して!」

マヤの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。

「やめろ!」

駆けつけた速水が叫んだ。
目薬をマヤの手から払い落とす。
マヤを背中にかばい紫織に向き合う。

「真澄様、お待ちしておりました。
 対岸にいるあなたが必ず駆けつけて来ると思っていましたわ」

「紫織さん、姫川の目が悪いと言うが、今日入った連絡によると、奇跡的に視神経を圧迫していた血腫が小さくなっているそうです。もちろん治療を受けなければ前と同じように見えないが、以前より随分改善して、明日の試演の舞台に立つだけなら、問題ないんですよ。
 だから、マヤ、君が目を悪くする必要はないんだ。」

速水は後ろに立つマヤに向かって言った。
紫織はマヤをかばう速水が気に入らない。

「そんなの、そんなの、嘘よ。
 あなたは、でまかせを言って止めようとしているのよ」

「いいや、嘘じゃない。
 姫川は大都のトップ女優だ。その容態を最高責任者である僕が知らないと思いますか?
 もし、マヤの目が潰れたらその方がアンフェアになるんですよ。
 マヤ、車で待ってなさい。早く!」

マヤは走った。速水の車まで来ると振り返った。

「さあ、その刃物を僕に渡して下さい」

「いいえ、嫌です。
 真澄様、私、私、あなたと共に死にたいのですわ。
 マヤさんにあなたを渡すくらいなら、あなたを殺して私も死にます。
 真澄様、私、あなたを愛しておりますの。
 何故、わかって貰えませんの」

紫織は懐剣を真澄に向けた。

「真澄様、お願い、一緒に死んで下さい」

紫織が真澄に突進する。
さっとよける真澄。
さらに、懐剣を振りかぶって真澄にとびかかる紫織。
真澄は、懐剣を持った紫織の手を掴んだ。
紫織はものすごい形相で真澄に懐剣と突き立てようとする。
揉み合う二人。
マヤは速水を助けようと側に落ちていた石を拾って二人の側に戻った。
が、手を出すまでもなかった。

「あっ!」

とうとう、紫織の手から懐剣が落ちた。
その場に倒れ込む紫織。
真澄は懐剣を拾い上げ遠くに投げる。
紫織は泣き出している。
真澄は紫織の側に跪いた。
紫織を抱き起こす。
そして、マヤは速水が信じられない言葉を言うのを聞いた。

「紫織さん、あなたが、そんなに僕の事を愛してくれていたとは!
 やはり、僕の妻はあなた一人だ」

マヤはそれを聞いて真っ青になった。
口元に持って来た手が震える。

(嘘! 速水さん、嘘よね。
 あたし、あたし、速水さんを信じる。絶対、信じる)

速水は紫織を抱きしめたまま言った。

「紫織さん、あなたが死ぬなら僕も死にましょう。あなたと一緒に」

「真澄様、本当に、本当に……。
 本当に一緒に死んでくれますの? 嬉しい!」

紫織は真澄の胸にすがるとさらに嗚咽を上げて泣き出した。
速水はしばらく紫織の背中を撫でながらそのまま泣かせておいた。
そして、おもむろに問いかけた。

「紫織さん、死んで行く僕の願いを聞いて貰えますか?」

「なんでしょう?」

「どうか、僕に『紅天女』の芝居を見させて下さい」

それを聞いた紫織は、いきなり立ち上がると、恐ろしい形相で真澄を睨みつけた。

「嘘、一緒に死ぬなんて嘘!
 あなたは、やっぱり、私より『紅天女』が大事なんですわ」

紫織はマヤに飛びかかろうとした。
爪でマヤの顔をずたずたにしてやりたいと紫織は思った。
真澄があわてて紫織を抱きとめる。

「紫織さん、嘘じゃない。
 明日、試演がおわったらあなたの望み通りにしましょう。
 僕は約束を守る男です。
 明日の夕方、6時に試演会場の前に来て下さい。
 あなたが望んでいる物を差し上げましょう。
 僕の命でもなんでも!」

「本当に、本当に?」

「ええ、本当ですよ、
 でも、この事は二人だけの秘密ですよ。
 誰にも言ってはいけません。
 わかりましたね」

「ええ、言いませんわ。
 だって、死ぬとわかったら止められてしまいますもの。
 あなたと二人。
 永遠に二人は一緒ですわ」

「さあ、今夜は、帰りましょう。
 いいですね」

紫織は、緊張の糸が切れたのかそのまま真澄の腕の中で気絶した。
真澄は紫織を抱き上げると、紫織の車へと歩いて行った。
紫織を運転手に託す。
携帯で、鷹宮の家に電話をし、鷹宮社長に紫織の容態を告げる。

「鷹宮社長、お嬢さんは思い詰めておられます。
 僕にこの件を任せてもらえますか?
 明日、6時に試演会場前に紫織さんを連れて来て下さい。
 紫織さんを狂気の淵から救えるかもしれません」

「わかった、真澄君。君にまかせよう! 明日の6時だね」

「はい、6時です」

そう言って、真澄は携帯を切った。
マヤの元へ急いで戻る。
マヤもまた、ショックを受けたのか、その場にしゃがみこんでいる。

「マヤ、大丈夫か?」

「速水さん!」

速水の胸に飛び込むマヤ。

「速水さん……」

そう言うなり、マヤは速水の胸で泣き出した。
泣きじゃくりながら、切れ切れに速水に問い質す。

「……速水さん、……う、うう、……、ひっく……、
 亜弓さんの目の事、……う、ううう、……知ってたんですか?」

「ああ、聞いていた」

速水は、マヤの背中をさすり優しく抱きしめた。
やがて泣き止んだマヤは、速水を問いつめた。

「どうして、どうして話してくれなかったんです?」

「君に話してどうなる。亜弓君の目が治るのか?
 違うだろう。君が落ち込むだけだ」

「でも、でも話してほしかった。
 あたしが、子供だから話してくれなかったんですか?
 あたし、子供じゃない!
 あたし、もう、ちびちゃんじゃありません」

思わず声を荒げて、速水の胸をたたくマヤ。

「子供じゃないというなら、俺の立場を考えてくれ。
 亜弓君の目が悪いと言う情報は、大都のトップシークレットだ。
 俺は立場上、君に話せない。
 たとえ、君の魂の片割れであってもだ」

「じゃあ、どうして、紫織さんは知ってたんです?」

「それは、わからない。
 彼女は鷹宮の人間だ。
 その気になったらどんな情報も金で買える。
 が、今は紫織さんはどうでもいい。
 亜弓君の話だ。
 いいか、マヤ、亜弓君が君に同情されて喜ぶと思うか?
 たとえ、失明してでも君と戦う道を選んだんだ、亜弓君は。
 君は精一杯自分の阿古夜を演じるんだ。
 いいね。それが亜弓君に対する誠意だ」

マヤは速水の言葉をしみじみ噛み締めた。
それから、ゆっくりと速水に聞いた。

「亜弓さんの目、治るんですか?」

「ああ、大丈夫だ。
 さあ、明日はいつもの稽古通りに演じるんだ。
 君は君だ。
 君の阿古夜を見せてくれ。
 俺がどんなに見たいと思っているか知ってるだろう」

マヤは、速水の胸の中でそっとうなづいた。

「速水さん、明日、死んじゃうんですか?」

「くっくっく、何を言い出すかと思えば。
 死ぬ訳ないじゃないか。
 ああ、言わなければ、紫織さんが収まらなかったろう。
 俺は君が怪我をするんじゃないかと気が気じゃなかったよ。
 君が、君が無事で良かった……」

速水はマヤの体を確かめるようにしみじみと抱きしめた。

「あたし、嘘だって思っても、あんな台詞聞きたくなかった。
『僕の妻はあなた一人だ』なんて……。
 速水さん、本当に紫織さんの事、なんとも思ってないんですか?」

「ああ、なんとも思ってない。責任は感じているがな」

マヤは、ほっとすると、さっき、目薬が滴った手が痛み始めた。
早く洗い流した方がいいようだ。
速水に言うと怒られた。

「何故、もっと、早く言わない!
 さあ、アパートに走って戻れ!
 俺は、刃物と目薬を始末して行く」

マヤがアパートに戻り、手を洗い終わると速水が来た。
速水がマヤの手を確かめる。
大した事がなかったので速水は帰る事にした。
アパートのドアを出ようとする速水にマヤが呼びかけた。

「速水さん……」

マヤはそう言って速水の背中を抱きしめた。
麗が唖然として見ている。

「明日の試演、楽しみにしてるからな」

肩越しにそう言って速水は帰って行った。
速水を見送るマヤに麗が話しかけた。

「一体、何があったんだい? 速水さんと。
 毎晩、携帯で話していた相手は桜小路君だったんじゃないのかい?」

「麗、速水さんが『紫のバラの人』だったの」

「えっ、えぇ〜〜〜!」

マヤは床についた。明日の試演を思って眠れないのではないかと心配していたが、あっというまに眠りに落ちた。
マヤは夢を見た。
速水と手をつないでどこまでも歩いて行く幸せな夢を。



明けて10月10日、「紅天女」試演の幕が上がった。




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