白鳥は蒼穹にはばたく   連載第4回 




 司会がラストダンスを告げた。
曲は、「フライ ミー トゥー ザ ムーン」
二人は、ただ、見つめ合って踊った。
ターンする度にマヤのドレスの裾が、ふわり、ふわりとひるがえる。
やがて、曲が終った。
速水は、曲が終わっても、しばらくマヤを離せなかった。

「……速水さん?」

マヤの黒く潤んだ瞳が、不思議そうに速水を見上げる。
速水は一つため息をつくと、マヤを離した。
それから、気をとりなおすように微笑むと

「さあ、これからどうする? 船内を見て回るか?」

「ふふ、そうですね、楽しそう!」

二人は、メインラウンジを出て、廊下の壁にかかっている船内案内図を見上げた。
12階にトップラウンジがある。

「速水さん、トップラウンジ、景色が良さそう」

「ああ、そうだな、星が見えるかもしれない」

二人はトップラウンジへ行く事にした。

トップラウンジで二人は飲み物を注文、踊り疲れた体をソファに預けた。
船の中で最も眺めがいいと言われるトップラウンジだが、夜は窓ガラスが邪魔をしてあまり見えない。
そこで二人は飲み物を飲み終わると、10階のスポーツデッキに行く事にした。
10階のスポーツデッキは広い。
デッキの向う、船の周りには茫漠とした海が広がっている。
暗い海に船の航跡が白く見える。
天空には月。満月である。雲一つない夜空だった。
速水はマヤとデッキをそぞろ歩きながら空を見上げた。

「星がよく見えるな。月が明るくて、少し邪魔だが。」

「梅の里で見た星もすごかったですね」

「ああ、すごかったな」

速水とマヤはデッキの手摺に寄りかかり海を眺めた。
海の上に月の影が出来ている。
マヤは速水を見上げた。
速水の端正な横顔に思わず見とれる。
振り向いた速水がマヤを見つめる。

「どうだ、少しは話す気になったか? 何故、紫織さんに会いに来たんだ」

マヤは、ここなら暗さにまぎれて表情がわからないだろうと思った。

「あの、あの、あたし……
 あたし、小切手を……」

「小切手?」

「ええ、滝川さんが今日、あたしに会いに来て、もう、紫織さんや速水さんにつきまとうなって言われて……。
 あたしが指輪を盗んだり、ドレスを汚したり嫌がらせをしたから……。
 あたしのせいで、速水さんが怪我をしたから……。
 だから、もう近づかないでくれって……。
 あたし、そんなことしてません! 本当です。信じて下さい。
 滝川さん、紫織さんからと言って小切手を置いて行かれたんです。
 速水さんや紫織さんに会わない引き換えにって!
 あたし、速水さんに会えないなんてそんなの、そんなの、嫌だったから!」

マヤの瞳からみるみる涙があふれて来る。

(ああ、だめ! 速水さんにわかってしまう)

マヤは思わず下を向いて逃げ出そうとした。
そして、あっという間の出来事だった。
マヤは、飲み物を運んでいるボーイとぶつかっていた。
ボーイは咄嗟によけたが、間に合わなかった。
マヤのドレスに赤ワインがこぼれた。

「お客様、申し訳ございません。すぐにお吹き致します」

ボーイは恐縮すると、持っていたナプキンでマヤのドレスをふき始めた。

「あの、ごめんなさい。あたしが……、あたしが悪いんです。下を向いて走ったから。
 せっかくお借りしたドレスを汚してしまって……」

「それより、お怪我はありませんでしたか?」

ボーイが丁寧に応対する。

「ええ、大丈夫です」

速水も心配そうに

「マヤ、大丈夫か?」

と言った。

「ええ、速水さん、ごめんなさい、ドレス、汚しちゃって!
 あたし、洗面所で洗ってきます」

マヤは、ボーイに洗面所の場所を聞くと、ボーイは「ご案内します」と言ってマヤを洗面所へと導いた。
速水はマヤの後ろ姿を見送りながら、はっとした。

(紫織さんのウェディングドレス!
 紫織さんの方からぶつかったら!
 いや、そんなわけはない、第一、紫織さんがマヤに濡れ衣をきせるわけがない。)

速水は自身の考えにぎょっとした。

(濡れ衣! 濡れ衣だと!
 紫織さんはマヤと会った後に指輪を無くしたみたいだと言っていた。
 あたかも、マヤが盗んだようにほのめかしていた。
 ……いや、まさか、考え過ぎだ。
 紫織さんがマヤを陥れる理由がない。
 ……いや……。
 いや、ある。
 もし、もしも、俺がマヤを愛している事を紫織さんが知ったら……!)

速水はその考えに真っ青になった。
それから、紫織の言動を必死になって思い出した。

(ずっと、隠してきたのに、まさか、紫織さんに知られるとは。
 いや、そうと決まったわけではない。)

速水は、社長室で水城と交わした会話を思い出した。

(『マヤちゃんは真っすぐな子です。
  たとえ、あなたを憎んでいても他の人間に憎しみをぶつけるような子ではありませんわ。
  何か、裏がありそうですわね』
 
 水城君の言葉を聞き流していたが、もし、紫織さんが俺の気持ちを知って、マヤを陥れるために仕組んだとしたら辻褄が合う。
 なんて事だ!)

そこへマヤが戻ってきた。
速水はこれはきちんと聞かなければと思った。

「マヤ、指輪はいつ気がついたんだ、バックに入っているのを」

「お稽古が終わってロッカールームで着替えてた時です」

「紫織さんに会った日か?」

「ええ、そうです。
 それで、その日は遅かったから、次の日に返そうと思ったんです。
 紫織さんの連絡先は、喫茶店でお会いした時に紫織さんから聞いて知ってたんです。
 喫茶店でお会いした時は、あの、あの、いつでも力になるから速水さんの事、許してやってほしいって!
 相談したい事が出来たらいつでも連絡していいからって、ご自宅の番号を教えてくれたんです。
 それで、指輪を返そうと思ってご自宅に連絡したら、紫織さんは出かけていて、あの、外出先を教えてくれたんです。
 そこに行くようにって。
 そしたら、ウェディングドレスの仮縫いをしてらして……!
 あたし、すぐに指輪を返して帰ろうと思ったのに、紫織さんからジュースを取ってほしいって言われて……。
 それで、紫織さんがよろめいて、あたしにぶつかって、気がついたらジュースがドレスにこぼれてたんです。
 本当です。速水さん、信じて下さい!」

「ああ、信じるとも! さっき、小切手と言わなかったか?」

「ええ、これです。」

そう言ってマヤは、ドレスのポケットから一千万の小切手を出した。

「あたし、紫織さんに誤解を解いて小切手を返そうと思ったんです」

速水は、小切手を受け取ると、船の照明の下にくしゃくしゃになった小切手をかざして驚愕した。

「わかった。これは、俺が預かっておこう。
 俺から紫織さんに返しておくから……。
 マヤ、君を疑ってすまなかった。
 君がそんな人間ではないと、俺が一番信じなければならなかったのに……。
 本当にすまなかった、許してくれ」

そう言って、速水は許しを請うた。

「速水さん、いいんです、いいんです、わかって貰えたら……。
 それに、あたしこそ速水さんに謝らないといけない。
 あたし、あたし、速水さんの事、憎んでなんかいません!
 母さんのこと、とっくの昔に許してた。
 速水さん、かあさんのお墓参りいつも来てるでしょう。
 ずっと、苦しんでたんでしょう!
 もう、もう、十分です!
 いままでさんざん大っきらいって言って、ごめんなさい。
 あたし、あたしの方こそ速水さんをいっぱい傷つけた」

マヤは泣いていた。

「マヤ、ありがとう、そう言ってもらえると肩の荷がおりたようだ……」

速水はマヤを抱きしめたかった。
だが、自分にそれが許されるわけがなかった。

「この間、会社に来たのはそれを言いにきたのか?」

「ええ、どうしても速水さんに誤解されたままは嫌だったから……」

「そうか……、マヤ、これを……、この間はありがとう」

速水は胸の内ポケットから血で汚れたハンカチをマヤに差し出した。
マヤは、はっとした。あの時、眠っている速水の額に口付けをした事を思い出した。
マヤの顔が、みるみる赤くなる。
マヤはまたしても速水の前から逃げ出そうとした。
だが、速水にがっちりと腕を掴まれた。
速水は、まさかと思った。

「マヤ! 何故、逃げる!
 君は、あの時、俺に付き添ってくれていたのだろう。
 このハンカチの血は俺の血だ。
 俺は夢うつつだったが、君のささやく声を聞いた。
 阿古夜の恋の台詞だった。
 それから、俺の額に熱いものが落ちた。
 あれは、君の涙だ、
 そして、額に君の……」

速水はマヤの唇をそっとなぞろうとした。
マヤは、顔をそむけた。速水の顔をまともに見られなかった。

「知りません! そんな事!
 あたし、あたしのせいで速水さんが怪我をしたからそれでハンカチで拭いていただけ。
 どんな夢を見たのか知らないけど、速水さんの夢の中まで、あたし、しりません。」

「どうして顔をそむける、何故、俺の目を見ない。
 本当の事を聞かせてくれ、あれは夢だったのか?
 マヤ!」

速水はマヤの両肩を掴んで揺すぶった。
それでもマヤは、速水を見ようとしなかった。
顔をそむけたまま、マヤは言った。

「どんな夢か知らないけど、もし、それが、夢じゃなかったら、
 夢が本当だったら、速水さん、どうしますか?」

たじろぐのは、速水の方だった。
速水は、手を離した。
マヤは、速水を見上げた。いつものマヤの顔に戻っていた。
真実は今一度仮面の下に隠された。

「……速水さん、今日はいろいろとありがとうございました。
 とても楽しかったです。
 あたし、今日はもう遅いからこれで……」

「部屋まで送ろう……」

「いいえ、ここで、あの、お休みなさい、速水さん」

マヤはぺこりと礼をしてそのまま踵を返した。
速水はマヤの涙を見たように思った。
速水はまさかと思った。

(まさか、本気か?)
 
速水はマヤが走っていった方を見ながら、呆然とその場に立ち尽くしていた。






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