白鳥は蒼穹にはばたく   連載第5回 




 速水はマヤを見送った後、一人ロイヤルスィートに戻った。
タキシードを脱ぎシャワーを浴びる。
速水はシャワーを浴びると多少すっきりした気分になった。
部屋着に着替え、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。
一口、飲んでソファに腰を下ろした。
マヤの声が耳に残る。

(『夢が本当だったら、速水さん、どうしますか?』

 もし、マヤが俺を愛してくれていたら……?
 待てよ、マヤは『紫のバラの人』に恋をしていなかったか?)

速水は、はっとした。

(……知っているんだ、マヤは!
 俺が、『紫のバラの人』だと!
 では、マヤは俺を愛しているのか?)

速水の胸に小さな希望が生まれた。

(いや、確かめなければ……。
 だが、もし、マヤが『紫のバラの人』の正体を知っていたら……。
 もし、マヤが知っていたら、俺はずっと隠してきた秘密を知られていた事になるな。
 むろん、確認するまでは何とも言えないが、恐らく俺の推測は正しいだろう。
 俺の秘密は知られたくない人間に次々と知られてしまったようだな。
 紫織さんにマヤを愛していると知られ……、マヤに『紫のバラの人』だと知られ……!
 この調子では紫織さんにも、『紫のバラの人』の正体を知られているかもしれん。
 なんてことだ! この俺が! 速水真澄ともあろうものが!
 事態を収集しなければ、このままではだめだ)

速水は、ミネラルウォーターをもう一口飲んだ。それから、もう一度、自分の考えに没頭した。

(たとえ、マヤが俺を愛してくれたとしても、だからと言ってどうなる。
 マヤ、君は正しいよ。
 俺は紫織さんを愛していない。愛していない人と仕事の為に結婚する。
 いや、愛していないだけではない。
 マヤを愛しているんだ。
 しかも、それを紫織さんに知られてしまった。
 どうすればいい?)

速水はベッドを見た。二つ並んだ枕。

(ここにマヤがいれば……、いや、俺は一体何を考えている!?)

速水は自分の考えを振り払うように頭を振り、ミネラルウォーターをごくごくごくと飲んだ。
冷たい水が、胃の腑に落ちる。少し冷静になれた。
そして、もう一度、二つ並んだ枕を見た。
速水は紫織の事を考えた。

(どうやったかは知らないが、マヤのバックに自ら指輪を入れ、俺にマヤを疑わせた。
 ジュースの入ったコップに倒れかかり自らドレスを汚し俺とマヤを引き離そうとした。
 鷹宮翁の言葉を借りて俺の出世をほのめかしたが、マヤにした事を考えると信用出来んな。
 その上、この船。
 次は体で俺を縛ろうとするのか!)

速水は嫌悪感がつのった。速水は紫織とは結婚出来ないと確信した。
今になって速水はなぜ、紫織にプロポーズをしてしまったのか、深く深く後悔した。

(もし、マヤが俺を愛してくれていたら!
 何もかも捨てよう。
 今度こそ、速水の家を出よう。
 マヤと二人ならどこでも生きて行ける。
 そうだ、そうしよう。
 ……
 だが、マヤは。
 彼女から舞台を取るわけにはいかない。
 もし、俺が紫織さんと別れたら……。
 義父はどうするだろう!

 ……とにかく、事実を確かめなければ。
 まず、マヤだ。
 マヤが、俺が『紫のバラの人』だと知っているかどうか。
 それから、紫織さんだ。
 『アテネシティ・プロジェクト』は鷹宮グループのバックアップが必要だ。
 それにこれ以上紫織さんにマヤに嫌がらせをさせる訳にはいかない。
 そうとも、そんな事はさせるか!
 何があってもだ。
 だが、俺がマヤを愛しているとあの女が思っている以上、必ず、マヤに嫌がらせをするだろう。
 別にマヤと付き合っているわけでもないのに、何故、そこまでマヤに嫌がらせをする?)

速水にはわからなかった。

速水には女の独占欲がわからなかった。
好きな男の心を自分自身で一杯にしたい。
誰よりも何よりも自分を愛してほしい。
そんな女心がわからなかった。
速水は紫織の人柄を聡明で優しい人だと思っていた。見た目の美しさ同様、心も美しい人だと。
実際、紫織はそういう人間だった。速水と見合いをした頃は。

紫織は速水が自分ではなくマヤを愛していると知った時、強い衝撃を受けた。
紫織は夜叉になった。
紫織は速水の心を自分の物にする為だったら何でもやれる人間に変わった。
人としての道を踏み外し、恋敵を陥れるためなら何でもやれる人間に!
紫織は心のダークサイドに落ちてしまった。

そして、速水は紫織が最初はどうであれ、今は底意地の悪い女なのだと理解した。
速水は紫織にマヤに嫌がらせをさせないようにするにはどうしたらいいだろうと考えた。
正面から婚約の解消をいえば紫織はマヤにどんな嫌がらせをするだろう?
鷹宮翁は大都芸能にどんな制裁を加えるだろうか?
何よりマヤに危害が及ばないようにしなければならない。
速水は、ここまで考えて紫織に婚約解消を言うのをやめる事にした。
紫織を愛しているふりをして向うから婚約解消を言わせる。
それが一番いいのだが、どうやって……?

煙草を吸いたくなった速水はバルコニーに出た。
手摺によりかかり茫漠とした海を眺めた。
煙草を取り出し火をつけ、一服する。
それから星空へ目をむけた。
深夜になって、船は灯りを落としていた。
先ほど、マヤと一緒に眺めた時より星がよく見えた。
銀河が空を横切っている。
ふと、8階のデッキを見おろした。
マヤがいた。




時間は少し遡る。
速水と別れたマヤは小走りに自分の船室に戻るとベッドに体を投げかけた。
そして、堰を切ったように泣き出した。

「……速水さん……、速水さん……」

(どうしよう、速水さんにわかったら、あたしの気持ち、迷惑なだけ……。
 速水さんにとってあたしの気持ちなんて迷惑なだけなのに……)

やがて、興奮した気持ちが落ち着くと、マヤはのろのろとドレスを着替えた。
シャワーを浴び化粧を落とすと少しすっきりした。
マヤは食事の前に船の売店で買っておいたパジャマ替わりのTシャツに着替えた。
ほっとするとやっと普段の自分に戻ったように思った。
いろいろごちゃごちゃ考えるのは自分には向いていない。
こんな時は体を動かすのが一番だ。
マヤはベッドの上で柔軟体操をしようとした。
すると隣からかすかな音が聞こえてきた。
隣の部屋のカップルが激しく愛し合っているようだ。
どうやら船というのは壁が薄いらしい。
マヤはいたたまれなくなった。

(速水さんの部屋は10階のロイヤルスィートって言ってた。
 8階のデッキから速水さんの部屋、見えるかもしれない。
 遠くからでもいい、もう一度、速水さんの姿が見たい)

マヤは部屋に備えつけられている船内案内図を見た。
速水の部屋は1011号室だと言っていた。
船の進行方向に向かって右側である。
マヤはもう一度、服を着替えると部屋を出て8階のデッキに向かった。
速水の部屋はすぐにわかった。
まだ、灯りがついていた。

「……速水さん……」

しばらくマヤは部屋を見上げていた。
するとバルコニーに人影が出て来た。
速水だ。
煙草を吸っているのが見える。星空を見ているのもわかった。
マヤは、先ほどのわだかまりが消えるのがわかった。

(迷惑でもいい。
 あたしの気持ち、打ち明けよう。
 そして、御礼を言おう。
 『紫のバラの人』として長い間支えてくれた事。
 どんなに感謝しているか、伝えよう。
 そうすれば、速水さんにお別れが言える。
 結婚して行く速水さんに心から祝福が言える。
 きっと、言える)

速水がマヤを見た。

(速水さん!)

マヤは心で呼びかけた。
速水が慌てたようにバルコニーから部屋に入るのが見えた。
マヤは立ち尽くしていた。
まさか、速水が自分を探しに来るとは思わなかった。
マヤは、速水のいなくなったバルコニーをぼんやりと見上げていた。
すると、足音が聞こえた。
はっとして振り返ると速水が走って来るのが見えた。







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