令嬢 鷹宮紫織   連載第3回 




 紫織はココアに混ぜられたブランデーのアルコールで眠りにつく直前、「紅天女」試演の日を思い出していた。



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10月10日、「紅天女」試演の日。
午前中は黒沼組、午後から小野寺組の試演が行われた。
黒沼組の試演が終わった後、真澄は拍手が鳴り止むのが待ちきれないとばかりに楽屋へと向かって行った。
紫織は真澄の後を追ったが、人波に押されて真澄と離れてしまった。
楽屋に着くと真澄が一人たたずみ何かをじっと見つめている。
仮設の楽屋には様々な衝立があり、真澄の立っている位置からは紫織の姿は見えないが紫織からはよく見えた。
真澄の視線の先にマヤがいた。紫のバラの花束を抱きしめて。
紫織は以前にも感じた何か声をかけてはいけない気配を真澄に見て取った。
紫織はそのまま立ち尽くし真澄をただ、眺めていた。
そして見たのだ。
真澄の表情に、瞳に、マヤを見つめる眼差しに、マヤへの激情を、深い愛情を。

(ま、まさか、真澄様!)

その時、近くで声がした。
スタッフ達がマヤの噂をしている。

「いいわね、マヤちゃん、紫のバラの花束を貰って!」

「長年のファンなんですって! 今日の試演、来てもらえたってすごく喜んでいたのよ、マヤちゃん!」

紫織はとっさにそのスタッフ達に声をかけた。

「あの、マヤさんのファンの方ってどんな方なんですの?」

「ああ、私達の間では有名な話で、マヤちゃんが初めて舞台に立った時から、紫のバラの花束を送ってくれるファンがいるんです。
 マヤちゃんは『紫のバラの人』って呼んでるんですけどね。
 マヤちゃんを高校へ進学させてくれたり、壊れた劇場を修理してくれたり……。
 とにかく、困った時に手を差し伸べてくれる足長おじさんのようなファンなんだそうですよ」

「そうそう、だからマヤちゃん、阿古夜の役をどうしても勝ち取りたいって言ってました。
 阿古夜の役を勝ち取るのがその人への恩返しになるからって……」

「まあ、すごいファンをお持ちなのね、マヤさんは。今日、そのファンの方は楽屋にはいらしてないんですか?」

と紫織が尋ねると、

「ええ、楽屋に来るどころか、マヤちゃんと一度も会った事がないらしいですよ」

「まあ、どこの誰か、マヤさんは知らないんですか?」

紫織はびっくりした。
どこの誰かわからない人から援助されて気持ち悪くないのだろうか?
それとも断れない程、彼女は困っていたのだろうか?
そう思った紫織にスタッフが続けた。

「ええ、マヤちゃん、会ってきちんと御礼を言いたいっていつも口癖のように言ってるんですけどね。
 一度も会った事はないそうですよ。
 今の世の中に、いくらファンとはいえ、奇特な人もいたもんですよね。
 高校に進学させるなんて、彼女が女優として物になるかどうかわからない頃からでしょう。
 彼女の才能を早くから見抜いていたのかもしれないけど、なかなか出来る事じゃないですよね」

スタッフ達は、そこまで話すと仕事があるからと言って去って行った。
紫織の頭の中で様々な出来事がまるでジグソーパズルのピースのように現れ、ぴたりぴたりとはまっていった。
そして紫織は愛する者の直感でわかったのだ。
真澄がマヤの『紫のバラの人』ありマヤを愛している事を!
真澄の愛情の総てはマヤのものであり、決して自分に向けられないと。
自分に向けられる真澄の愛情のような物は、庇護される者へ庇護する者があたえる親切であると。
愛に違いはないだろうが、決して、男女の愛ではないと。

ショックだった。
真澄が結婚を申し込んでくれた以上、自分を愛してくれていると思っていたのに!
違った!

(何故、どうして、私に結婚を申し込まれたのです。真澄様!)

世界がくずれた。涙が溢れた。
真澄に気づかれぬよう紫織は踵を返していた。

(今、真澄様に会っては不信に思われるわ。
 貴賓席に戻ろう。
 そして何食わぬ顔をしていよう。)

紫織は楽屋に背を向ける貴賓席へと急いだ。
戻りながら、はっと気がついた。

(真澄様とマヤさんは確か犬猿の仲って聞いているわ。
 マヤさんのお母様を死に追いやったって……。
 ではでは、真澄様は自分を憎んでいる少女を愛しているの?
 なんてこと!
 誰でも好きな人からは好かれたいと思う筈なのに。)

紫織は、真澄の複雑な心境を思いやった。
そして、自分自身を取り戻した。

(しっかりしよう。
 真澄様は、マヤさんを諦めたのだわ。
 一生、紫のバラの人の正体をマヤさんに明かすつもりはないのだわ。
 だったら、私はあの方がマヤさんを忘れるのを待つだけ。
 そうよ、今はまだ、マヤさんに未練があるかもしれない。
 でも、きっと、その内忘れてくれるわ。
 私は妻として真澄様に静かな愛情を注ぎ続けよう。
 たとえ、真澄様に恋をして貰えなくても……)

紫織は頭でそう考えた。
心が傷つき血を流すのは無視した。
だが、無視した事で心の傷はぱっくりと傷をあけたまま、治る事はなかった。
それが、真澄への拒否となって表れた。
他の女を愛している男に身を任せる惨めさ。
紫織には耐えられなかった。



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翌朝、台風の余波で天気は悪かったが、雨はあがり、波もおだやかになっていた。
コテージに取り寄せられた朝食の席で二人は黙っていた。
気まずい雰囲気がただよっている。
やがて食事が終わると真澄は、

「僕は仕事を別棟でしていますので、何かあったら内線で呼び出してください」

そう言って紫織のいるコテージを後にしようとした。
紫織が真澄を呼び止めた。

「あの、真澄様……」

「なんでしょう」

「あのお話があります」

「……夕べの事だったら、僕は気にしていませんよ。
 初めての時はそういうものです。
 それより、体の調子はどうです?
 風邪を引きませんでしたか?」

「ありがとうございます。ええ、風邪は引きませんでした。
 あの、昨夜はごめんなさい。
 私、謝ろうと思って……」

「謝らなくてもいいですよ。
 僕はあなたが僕を受け入れられるようになるまでのんびり待つ事にしました。
 だから、あなたが僕を受け入れられるようになったと思ったらそう言って下さい。
 昨夜の続きをしましょう」

そう言って、真澄はいたづらっぽく笑った。
紫織は真澄の笑顔につられて、ふわりとした儚い笑いを浮かべながら、顔を赤らめ俯いた。

「無理はしなくていいですからね。
 ただ、ご実家の鷹宮翁やお父上から、いずれ子供の事を聞かれるでしょうから、その時はあなたの体調が悪いようなのでと話しておきます。
 それで、いいですね」

「ええ、真澄様、、あの、ありがとうございます」

真澄はそんな紫織に優しく微笑みかけ、それから別棟に用意した執務室へ向かった。


紫織は一人になると、窓辺にすわり台風の余波で荒れている海を眺めた。
やがて、紫織は静かに泣き始めた。
あふれる涙をハンカチで拭う。

(とにかく、真澄様に決して私が総てを知っていると悟られてはいけない。
 わかったら、あの人の事だ。
 潔く私の元を去るだろう。
 とにかく待とう、そう、あの人が紫のバラをマヤさんに贈らなくなるまで……。
 ああ、真澄様が私を愛してくれていたら……)

紫織は泣くしかなかった。



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