令嬢 鷹宮紫織   連載第8回 




 紫織は時々マヤの劇を見に行くようになった。
紫織は思った。
いろいろ思い悩んだ所で人の心を思い通りすることなど出来ないのだと。
真澄にマヤを忘れさせる事は出来ないと。
それなら、真澄が好きな物を自分も好きになろうと紫織は思った。
やがて紫織は、真澄と同じようにマヤの芝居から、マヤの演技から目が離せなくなっていた。

(真澄様、あなたが、マヤさんのファンであり続けるのを、私、許して上げますわ。
 だって、あんな演技をされたらファンにならずにいられませんもの。
 ……ああ、それでも、あなたが紫のバラをマヤさんに送るのをやめてくれたら。
 そしたら、私はあなたと一つになれるのに)

紫織はマヤの演技に拍手を送りながらそんな事を考えていた。


桜の花の咲く頃、映画「霧の旗」の製作発表会が行われた。
紫織は発表会場となるホテルに向いながら今日もきっと紫のバラはマヤの元に届けられているだろうと思った。
紫織はすでにあきらめていた。
マヤにバラが届けられない日は決してこないのだ。
それでも、今度こそと思わずにいられなかった。

紫織はマヤの元を訪ねようとスタッフルームになっているホテルの会議室を探したが、迷ってしまった。
迷っているうちに人気のない廊下に出た。そこに男女の言い争う声がした。

「桜小路君、何度も言っているでしょう。
 あなたとは付き合えない。
 あなたがあたしを思ってくれるのはありがたいと思ってる。
 でも、あなたがあたしを思ってくれるように、あたし、あなたを好きにはなれない。
 お願い、わかって!」

紫織は立ち聞きをするつもりはなかったが、近くのドアの向うから聞こえてくる言い争う声に自然と聞き耳を立てていた。

「マヤちゃん、ごめん!
 しつこくしてごめん!
 だけど、頼むから食事くらい付き合ってよ。只の演劇仲間でいいんだ」

「……」

「ね、マヤちゃん」

「ううん、だめ、桜小路君がそういうからいつも付き合って来たけど、おかげで周りからすっかり誤解されて……。
 あたし、困ってるの。
 悪いけど2度と誘わないで」

「それは、紫のバラの人が忘れられないから?」

「……そうよ、あたし、紫のバラの人が好きなの。
 だから、あなたとは付き合えない」

「そんなどこの誰ともわからない、一度も会ってない人間にどうして恋が出来るんだ。
 君は僕を追い払う為に嘘をついてるんだ」

「違う! 違うの。本当にあたしは紫のバラの人が好きなの。
 もう、私に構わないで!」

バンとドアが開くと、マヤが走って出て行った。
胸に紫のバラの花束をかかえて。

紫織は愕然として聞いていた。
そこに、桜小路が出て来た。
紫織に気がつくと

「速水社長夫人、こんな所でどうされたんです」

「あ、あの、私、迷ってしまって!
 マヤさんと少しお話しがしたかったのだけど、なんだか、お取り込み中ね。
 今、マヤさんが言っていた『紫のバラの人』に彼女が恋しているって本当ですの」

「ええ、マヤちゃんはそう言ってます。
 『紅天女』の試演以来、ずっとなんです、彼女が紫のバラの人に恋をしているのは……。
 それも、恐らく、一方的な恋なんです。
 『紫のバラの人』は一度も彼女に会おうとしないんです。
 そんな相手に彼女は恋をしたり失恋したりしてるんです。
 どう考えても納得いかなくて」

「でも、あなたも彼女をずっと好きなのでしょう。
 一度好きになったら人はなかなか忘れられないものではなくて」

「……確かに、確かに僕もそうだな」

「だったら、彼女の事をわかってあげなければ」

「……そうですね、そう言えばそんな風に考えた事なかったです。
 一度、好きになるとなかなか忘れられませんよね。
 忘れようと思って他の女性と付き合っても、ついマヤちゃんと比較して……。
 結局、忘れられなくて……。
 彼女もきっと、忘れられないんだろうな、アドバイス、ありがとうございます。」

桜小路は紫織に礼を言うとマヤの後を追っていった。
紫織は桜小路から聞いた事実にショックを受けていた。

(マヤさんは、知っているのだわ。
 『紫のバラの人』が誰か。
 見ず知らずの人に恋が出来るわけがない。
 『紫のバラの人』の正体がわかって恋をした。
 だけど私と速水が婚約したから、失恋したんだわ。
 ……真澄様が打ち明けさせすれば、両想いになるの?
 あの二人は。
 そんな、そんなの嫌、いやああああーー)

紫織の心に住みついていた蛇はいつのまにか、大蛇に成長していた。
今、大きな口を開け紫織を飲み込んだ。




速水邸に戻った紫織はそのまま寝込んだ。

紫織は夢の中にいた。
すると、蛇がやって来た。
蛇があっちを見ろと言わんばかりに首を振った。
見ると真澄とマヤがいる。
二人は楽しそうに話している。声は聞こえない。
ここはどこなのだろうと見回すと薔薇園のようだ。
だが、咲いているのは紫のバラだけ。
紫織は真澄に呼びかける。

(あなた、あなたの妻は私! 私よ!
 忘れないで、私はここにいる!)

紫織はなんとか二人の側に行こうとした。
だが、紫のバラが生け垣となって生い茂り紫織の行く手をはばんだ。
二人は手を携えて遠ざかって行く。

(あなた! あなた、行かないで! お願い、行かないで)

紫織は声を限りに叫んだ。
そこで目が覚めた。

目の前に心配そうな真澄の顔があった。
紫織は思わず手を伸ばして真澄を抱きしめていた。
嗚咽をあげて泣く。

「紫織さん!」

真澄は、紫織を胸にすがらせたまま、紫織の背中を撫でた。
しばらくして紫織が落ち着くと真澄は尋ねた。

「大丈夫ですか? 何かあったんですか? 随分、うなされていましたが」

「私……。あの、あの……。怖い夢を見て……。あ、あなたが遠くへ行ってしまう夢で……。」

そう言ってまた泣き出した。

「大丈夫ですよ。僕はどこにも行きませんから。」

真澄はそう言って紫織を慰めた。
ひとしきり泣きつくすと真澄が何故ここにいるのか気になった。
普段はまだ、仕事をしている時間だ。

「あ、あなたこそ、どうして? どうして、こんなに早く家に帰ってらしたの?」

「夕食にダイニングまで来なかったでしょう。朝倉が心配して、僕に電話をかけてきたんです。
 様子を見てほしいと……。
 どうしたんです? 何かあったんですか? 今日は「霧の旗」の製作発表会を見に行くと言っていましたが?」

「ええ、その後、少し歩きたくなって街を歩いていたら、風邪を引いたみたいで……。
 それで、家に帰ってから寝込んだら、嫌な夢を見て……」

そう言って紫織は誤摩化した。
そして、もう一度、真澄の胸にすがり、静かに泣き出した。
真澄は訳がわからなかったが、泣きたいだけ泣けば、気が済むだろうと思ってそのまま背中を撫でていた。
枕元にハンカチがあったので、真澄はそのハンカチを取ると紫織に渡した。
しばらくして、紫織が落ち着いてきたので真澄はそっと話しかけた。

「近い内に、実家に帰ってらっしゃい。
 たまにはご両親や鷹宮翁に顔を見せてあげるといい。
 喜ばれるでしょう」

「ええ、ありがとう、あなた。
 そうしますわ」

真澄は、廊下の外で待っていた執事の朝倉に夜食を持って来させた。
紫織が食べるのに付き合う。

「そう言えば、温室の蘭、あなたが沖縄で買った。あれが、随分大きくなっていましたね。」

紫織は、真澄が慰めてくれているのが嬉しかった。
普段は蘭の花の事など聞かない真澄だった。

「……ええ、夏にはきれいな花を咲かせるでしょう」

「僕は、蘭の花の事はよくわからないが、あなたの育てた花は素直に美しいと思う。
 品評会等に出してみてはどうです?」

「まあ、あなた、そんな事をしても恥をかくだけですわ。
 品評会に出品される方達の花はそれは素晴らしいんですのよ」

紫織はひとしきり品評会の話をした。
真澄は紫織の他愛ない話に相づちをうちながら紫織が夕食を食べるのにつきあった。
胸の内に巣食う蛇によって痛めつけられた紫織の心は暖かいスープと真澄の存在によって癒された。
紫織は夜食を食べ終わる頃には、顔色も良くなり食後に飲んだ薬も手伝ってやがて穏やかな眠りについた。



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