時計樹に飛び込んで    連載第11回 




 「紫のバラの香水」を嗅がされ、意識不明になった速水社長。やっと解毒剤がわかり、今、投与された所だった。倒れてから5日が立っていた。
「紫のバラの香水」を作った香月由香里。彼女は鷹宮紫織の縁の者だった。鷹宮紫織を崇拝していた由香里は、紫織を振った速水を許せなかった。「紫のバラの香水」を紫のバラから作ったというのは真っ赤な嘘。ボルネオの奥地から取り寄せた珍しい蘭から取れる薬物。これを揮発性のアルコール等と一緒に吸い込むと強力な自白剤になるのだ。やがて、遅効性の毒がゆっくりと全身に周り、死に至らしめる。この場合、同じ蘭の根から取れる解毒剤を服用すれば毒は中和される。速水の場合、吸い込んだ量がわずかだったのが幸いした。香月由香里は、香水を水無月さやかに渡す時、効果は一回だけだと念を押して渡していた。もちろん、北島マヤが速水真澄と共に香水を吸い込み死に至れば、香月由香里にとってこれ以上ない満足の行く結果になっただろう。速水が咄嗟に蓋をした事でマヤは難を逃れたのである。
香月由香里を追いつめ、解毒剤を手にいれたのは、もちろん、速水の影の秘書、聖唐人だった。

北島マヤは出演中の芝居が千秋楽を迎え、約束通り、水城に速水の行方を聞こうと電話を入れた。

「いいわ、マヤちゃん。明日、10時にアパートへ迎えに行くわ。それから、社長に会わせてあげる」

翌日、水城はマヤを速水が入院している病院に連れて行き、マヤを眠っている速水に会わせた。マヤはベッドに横たわる速水を前に真っ青になった。

「嘘! 速水さん! 嘘!」

「しっ、マヤちゃん、静かにして。落ち着いて聞いて頂戴。一時はあぶなかったの。だけど、いいお薬が見つかって今は眠っているだけなのよ。もうすぐ、目が醒めるわ。マヤちゃん、速水社長は絶対、あなたに言うなって言ったの。芝居に影響するかもしれないと思ったのね。速水社長はいつでもあなたが憂いなく演じられるように考えて下さっているのよ」

マヤはベッドの側に跪いた。真澄の手を取る。マヤの目から涙がぽたぽたと滴る。

「速水さん……」

マヤは速水が死んでしまうのではないかという恐怖と、助かったという安堵を一度に味わっていた。
マヤの呼びかけが届いたのか、速水が目を覚ました。マヤを見つけると嬉しそうに言った。

「真耶お嬢様! おはようございますです。あ、すぐに支度をして馬車をだしますんで。えーっと、お嬢様ですよね」

速水の目覚めを待っていた医者も水城もマヤも唖然として速水を見た。

「えーっと?」

男は起き上がり、あたりをきょろきょろと見回した。

「おいら、まだ、夢みてるみてぇだ。ほんじゃ、お嬢様、お休みなさいませ」

男はもう一度、ベッドに潜り込もうとした。側にいた医者が話しかける。

「速水さん……、大丈夫ですか? しっかりして下さい」

布団に潜り込んだ男が、布団からそっと目だけだして、不思議そうに医者を見る。

「おいらの事だか?」

「そうですよ」

「おいらは、ゴン太です」

医者はすぐに異変に気が付いた。

「……、あなたは昏睡状態だったのです。もうしばらく休んだ方がいいでしょう」

医者は秘書の水城を手招きすると、病室の外に連れ出した。

「精神科の医師を手配しましょう。毒のせいか、或は、他の原因かもしれませんが、速水さんは混乱しているようです」

水城は宜しくお願いしますと、医者に頭を下げた。

速水真澄にとっての身内は英介だけだった。それも、義父であって、血は繋がっていない。速水が昏睡状態に陥った時、水城は普段から用意されていた速水からの委任状を医者に見せ、入院等の手続きをした。この病院の院長は速水家と普段から懇意にしていたので、何も問題はなかった。
英介は月影千草の死後、梅の谷に籠っていたが、真澄入院の知らせに東京に戻っていた。英介は真澄の枕もとを見舞ったが、容態が安定すると速水邸に戻った。解毒剤がわかり、まもなく目覚めると聞くと、それ以上真澄を見舞う事なく、さっさと梅の谷に戻った。英介にとって、千草の死は自身の人生の死であった。最早、英介を生にかき立てる物は何もなかった。一人千草の思い出に浸り、余生を送りたい。それが、老人の唯一の望みだった。

医者の専門は内科だった。医者は精神科の医者に応援を頼んだ。どうみても速水の様子は精神科の領域だった。内科の医者の要請を受け、精神科の医者が呼ばれた。

水城が医者と話している間、マヤは真澄と話をしようとした。しかし、真澄は布団に潜り込み膝をかかえて丸くなっている。

「速水さん、大丈夫?」

マヤが話しかけるが、真澄は、不思議そうにマヤを見るだけである。それでも、マヤにしてみれば、昏睡状態よりずっとましだった。

「速水さん……!」

男は布団から顔を出した。

「あのう、お嬢様。真耶お嬢様ですよね。おいら、ゴン太です。お嬢様こそ、何故、こんな所に? それに、真耶お嬢様……、なんか感じが変わったような……。なんだか、大人になったみたいです」

マヤは男の目の光に、違和感を感じた。真澄の顔をしているのに……。マヤは焦った。

「あなたの名前はゴン太じゃない。速水真澄、大都芸能の社長よ」

「は? おいらゴン太です。お嬢様は北島伯爵のお嬢様ですよね。真耶お嬢様ですよね。違うんですか?」

「あたしは北島マヤだけど、伯爵令嬢じゃない」

マヤは、はっとした。マヤは速水がふざけているのだと思った。

「もう、速水さんったら! あたしをからかってるんですね。こんな時にからかって! 心配したんだから!」

男はごそごそと布団から出て来た。

「あの、からかってなどいねぇです。おいらはゴン太です。あの、ここはどこですか?」

「ここは病院よ。速水さん、意識不明だったの、さっきやっと目を覚ましたのよ」

「おら、速水さんじゃねぇです。おら、ゴン太です」

マヤは真澄の態度にかちんときた。

「もう、速水さん、変な事いわないで!」

マヤはバックからコンパクトを取り出し、鏡を突きつけた。

「ね、速水さん、この顔! 速水真澄でしょ!」

男は鏡に映る顔を見た。両手で自分の顔を触ってみる。

「あれ? これ、藤村だ」

「藤村?」

急に男の顔に驚愕の表情が浮かんだ。

「ああ、この顔、藤村だ。あんた、真耶お嬢様に似ているけど、お嬢様じゃねえ。お嬢様が藤村を間違えるわけねえ。おいらはゴン太だ。こんな顔じゃねえ。おら、おら、どうなっちまっただ! おいら、おいら、帰るだ!」

男はベッドから出ようとした。点滴の管がひっかかる。

「だめよ。まだ、寝てないと。あなたは病気なの」

マヤが必死で押し止める。男がわめく。

「あんた達、誰だ! ここ、どこだ! おら、家に帰るだ!」

そこに精神科の医者が到着した。医者はゆっくりと話した。

「落ち着いて下さい。大丈夫ですよ。速水さん、ここは病室で、あなたは昏睡状態から醒めた所なんです。それで、混乱しているのでしょう」

「おいら、ゴン太だ。速水さんじゃねえ。それに、おら、おら、こんな顔じゃねえ。ふじむらー、旦那さまー、奥さまー、みんなどこに行っちまっただよー」

男は激しく泣き出した。
精神科医はマヤの方を見ると、厳しい口調で言った。

「患者に何かしましたか?」

「あの、鏡を見せたんです。そしたら、違うって言いだして……」

精神科医は眉を曇らせた。

「そういう事は許可を取ってからにしてほしかったですね。まあ、やってしまったのですから、仕方ない」

もう一度、医者は男に向き直った。

「君、落ち着いて。君は速水さんじゃないなら、名前はなんていうの?」

精神科医はティッシュペーパーを取ると、男に渡した。男は涙を拭き拭き言った。

「おいらはゴン太ですだ。みんな、そう呼びますだ。あんたはお医者の先生かい」

「ああ、医者だ。では、あなたをこれからゴン太と呼びましょう」

精神科医はマヤを振り返ると言った。

「申し訳ないですが、今から診断を始めますので、席を外して貰えますか?」

マヤは小さく頷いて病室の外に出た。
医者はゴン太とまるで雑談をするように、ゴン太から様々な情報を引き出して行った。
一通り診察をすると、医者は病室を出た。病室の外で待っていた水城を呼び寄せ別室に連れて行く。医者はそこで、水城に速水の状態を説明した。

「解離性同一性障害、いわゆる多重人格です」





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