時計樹に飛び込んで    連載第12回 




 「多重人格?」

水城は思わず繰り返していた。そんな馬鹿なと頭の中でつぶやく。

「そうです、多重人格です」

精神科医は一瞬嬉しそうな顔をした。獲物を前にした猫のような笑み。だが、すぐに顔を引き締めると言った。

「今回の薬物ですが、強い自白効果があったとか……、つまり、それだけ脳に強く影響を与えたと考えられます。しかも毒消しの薬も同じ蘭からとれた物ですし……。ここからは推測ですが、毒消しの方にも何らかの脳に作用する成分が入っていたのかもしれません。分析してみないとわかりますが、多重人格を引き起こす何かが……」

「そんな! では、肉体を救う為の薬が精神を破壊したと?」

「いえ、精神を破壊というのではなく、別人格を引き出した……。そういう感じではないかと……」

「一体、どういう人格なんですか?」

「自分は北島伯爵邸の御者で、名前はゴン太だと言っています。そこでの暮らしを詳細に語っています。まるで、本当に住んでいたみたいですよ。素晴らしい想像力です。こちらをご覧下さい。伯爵邸の様子を書いています。こちらは伯爵邸から学校までの地図です。絵は稚拙ですが、なんというか……、実にリアルです。……しばらく様子を見て、毒消しの影響が完全に抜けても今の症状が続くようでしたら、精神薬に寄る治療を致しましょう」

「毒消しの影響はどれくらいで抜けるのでしょうか?」

「それは内科の担当医と話し合わなければなんとも言えませんが……、数値的にはすでに抜けている可能性が高いんですが……、しかし、検査をしていない項目は数字として上がって来ないので……、しばらく様子を見るとしか……」

精神科医は歯切れが悪かった。水城は精神科医の説明に、絶望的な気持ちになった。水城が病室に戻ると、内科医の指示で、速水には重湯が与えられていた。速水は与えられた食事を黙々と食べていた。
水城が入って行くと、マヤが立ち上がった。

「水城さん、先生、なんて?」

水城は病室の外で、マヤに病状を説明した。

「多重人格?」

「医者が言うには毒消しの方にその成分があったんじゃないかって……、薬物の影響が抜ければ或はもとに戻るかもしれないの。しばらく様子を見る事になったわ」

「水城さん……、あたし、これからしばらくお休みになるの。付き添っていい?」

マヤは自分が付き添えば、或は、速水を元に戻せるかもしれないと思った。

「もちろんよ、マヤちゃん。こちらからお願いしたいわ」

マヤは翌日から速水に付き添う事になった。ゴン太と名乗る速水は、しばらく落ち込んでいたが、周りが自分をゴン太と呼ぶようになると陽気になった。食欲もありみるみる体力を回復していった。

「ここ、おいらの夢の中だと思うだ。おいら、一度、藤村みたいないい男になってみたかっただ」

ゴン太は自分が藤村の顔をしているのを夢のせいにしていた。マヤは夢じゃないと言いたかったが、患者に逆らわないようにと医者から言われていた。
ゴン太は医者の問診にもそれなりに答え速水の体になれたようだった。

或る時、マヤは受付近くの自販機にジュースを買いに行き病室に戻ろうとしていた。廊下を歩いているとナースステーションの前で看護士が検査技師と話している。

「あの香水。凄い代物だったけど、患者さん、回復したんですって?」

「速水さん? ええ、毒消しが見つかったの。なんとかいう蘭の花の……、えーっと種が毒で根っこが毒消しって言ってたみたい」

「その毒消しの方、成分を分析するように言われたんだけど、毒消しの薬、残ってる?」

「さあ、それは……? 担当の先生に聞いてみてくれる? でも、怖いわね、香水に仕込むなんて。飲み物や食べ物は注意出来るけど、香水って、一種の毒ガスみたいな物じゃない。周りの人に被害がなくて良かったわ」

その話を聞いてマヤはぞっとした。

――あの香水だったんだわ。速水さんが昏睡状態になった原因は!
  あたし、なんて事をしちゃったんだろう。
  もう少しで、速水さんを殺す所だったんだ。

マヤはがたがたと震え、その場にくずおれた。

「マヤちゃん、どうしたのこんな所で……」

「あ、水城さん……」

水城が心配そうにマヤを覗き込んだ。マヤの目から涙が溢れた。ぽたぽたと落ちて行く。

「水城さん! 速水さんが昏睡状態になった原因って、あの香水だったの!」

マヤと水城の声に看護士と検査技師はバツが悪そうにそそくさと歩き去った。水城はマヤに言った。

「誰から聞いたの?」

「今、そこで、誰かが話してて……」

水城はナースステーションの方を見た。廊下の向うに急ぎ足で歩いて行く検査技師の背中がちらりと見えた。

「マヤちゃん、聞いたのなら仕方ないわ。そうよ、あの香水が原因だったの」

「あたし! あたし! 速水さんを殺しかけた!」

「落ち着いて! マヤちゃん、落ち着いて頂戴!」

水城はマヤの腕を掴んで強く揺すぶった。

「社長はね、マヤちゃんには絶対に話すなって言ったの。マヤちゃんが悪いわけじゃないでしょ。ね、だから自分を攻めないで!」

「でも、でも、あたし……」

「マヤちゃん……、今更マヤちゃんが自分を攻めても真澄様はよくならないわ。それより、私からお願いがあるの」

「え?」

「あなたはね、大都芸能、速水社長の恋人なの。それを重々自覚して頂戴。社長はね、海千山千の人達と付き合ってるの。弱みは見せられない。でも、あなたが恋人になった。あなたはね、速水社長の弱みになったの。いつ、誰が、どんな形でつけ込んでくるかわからない。それを決して忘れないで……」

「水城さん……!」

「ね、約束して頂戴。今度、誰かから速水社長に何かしてほしいって頼まれたら、まず、社長に話す事。どうしても社長に連絡が付かない場合は、私に話すのよ。いい! 絶対よ!」

マヤはこくこくと頷いた。マヤは自分が如何に甘かったか、しみじみ思った。もう、2度とこんなミスはしない。マヤは心に誓った。


水城は廊下をマヤと共に歩きながら速水の様子を聞いた。

「相変わらずです……。あのね、水城さん、突飛な話なんだけど、聞いてくれる?」

「なあに、マヤちゃん。遠慮しないで言って……」

「あのね、あの、あの……、速水さん、速水さんじゃない気がするの」

「?、……どういう事?」

「あのね、あたし、速水さんはあたしの魂の片割れだと思うの」

「魂の片割れ?」

「うん、あの、だけど、今の速水さんからは、あたしの速水さんが感じられないの。なんだか、魂が別人って感じなの」

「つまり?」

「あのね、多重人格なんじゃなくて、その、魂が、別の人の魂が速水さんの肉体に入っているみたいな、そんな変な感じなの」

マヤは水城の当惑した表情にあわてて手を振った。

「あ、ごめんなさい。あたし、変な事いっちゃって。気にしないで下さい」

「いいえ、いい事を教えてくれたわ……。マヤちゃん、あなたと社長が魂の片割れ同士だって、いつ気が付いたの?」

「……、紅天女の練習をしている時、梅の谷でその、おかしな体験をして……」

マヤは梅の谷で魂が抜け出した話を水城にした。速水と宇宙空間のような所で、魂だけになって抱き合ったと……。

「そう、そうなの。マヤちゃん、あなたの直感は正しいかもしれないわ。私、速水社長が多重人格なんて絶対に信じられないの。それなら、魂が入れ替わったって言われた方がまだ、信じられるわ。マヤちゃん、あの男、ゴン太って言ってたわね。自分は北島伯爵の屋敷に住んでいて、御者をしていたって」

「ええ……」

「調べてみるわ。北島伯爵が実在したかどうか……」

水城はそれだけ言うと、踵を返して病院を後にした。


マヤはゴン太と名乗る速水に付き添い世話をした。マヤは自分の直感を信じた。速水の魂はここにはいない。速水の肉体の内にあるのはゴン太の魂だと思った。速水の魂が早くこの体に戻るようにとマヤは祈った。
マヤはゴン太がリハビリの為、病院内を散歩するのに寄り添った。背をかがめ、だらりと両手を垂らして歩くゴン太。速水らしくない姿を見ても中身がゴン太だと思えば何という事もなかった。ただ、ときどき、まっすぐに立つと速水真澄本人のように見えなくもなかった。
困った事にゴン太が速水のようにすらりと立つと、すれ違う若い女性が速水に秋波を送って来るのだ。マヤはそれがショックだった。魂が違うと思っても、他の女性が真澄に秋波を送るのは嫌だった。その上、ゴン太はそういう女性に対し、鼻の下をのばして喜ぶのだ。

「ほぇー、藤村が娘ッ子に人気があるのは知ってただが……、確かにこの顔はもてるの」

ゴン太はにやにやと笑った。
マヤはむっとして、思いっきり速水の頬をつねった。

「何、なさいますだ、お嬢様」

ゴン太は真耶お嬢様にそっくりなマヤを習慣でお嬢様と呼んでいた。

「あたしの速水さんは女性には潔癖でした。そんな嫌らしい笑い方はしないの。ゴン太だかなんだか知らないけど、見た目はあたしの速水さんなんだから、誤解されるような事しないで!」

ゴン太は何を怒られているかわからなかったが、この真耶お嬢様にそっくりな女性が自分に物凄く親切であり、この人に嫌われたら恐らくここで生きていけないと感じていたゴン太は、神妙になった。どんな美女から流し目を送られても、知らん顔したのだが、内心、もったいないと思っていた。

マヤはゴン太と話すのは楽しいと思った。テレビを見せると、ゴン太は飛び上がって驚いた。

「こ、これは! これは! な、なんだー? こちらじゃ、こんな小さい人がいるだかね?」

「え! テレビを見た事がないの? 嘘! 信じられない」

しかし、マヤはゴン太の言葉を思い出した。北島伯爵邸で御者をしていたゴン太。ここにいるゴン太は平成の人間ではない。伯爵という身分があった時代の男なのだ。明治か大正。テレビの無い時代。マヤはテレビを説明しようとした。

「……これは、テレビと言って、放送局で流しているの。電波で送られてくるのよ」

「テレビ? ホウソウキョク? デンパ? おら、わかんね」

マヤはゴン太に電波を説明しようとして、ハタと思い当たった。

――電波って、なんだっけ? えーっと、確か理科でならったけど、あれ? あたしもわかんないな。
  ま、いいや、とにかくうつるんだから。

「あの、えーっと、ははは、とにかく、ここにはいないの。遠くでお芝居してるのが映ってるの」

「はあ? 遠眼鏡みたいな物ですかね? お嬢様」

「そうそう、遠眼鏡」

マヤは笑って誤摩化した。よっぽどゴン太の方が説明がうまいと思った。
ゴン太が目覚めて4日目の午後。

「えーっと、真耶お嬢様、あの、おいら、窓の外に見えるイチョウの樹に見覚えがあるだよ」

「えっ? イチョウの樹に?」

「うーん、よく似てるだが……。もしかして、富士のお山はあるだかね?」

「富士山?」

マヤはゴン太と窓辺に立った。しかし、ここからは見えない。そこでマヤはゴン太を、屋上に連れて行った。ゴン太をエレベーターに乗せると驚き慌てた。

「大丈夫、これはエレベーターと言って、自動的に上下に移動する機械なの」

「ほぇー、なんちゅう機械じゃ。ここは天国?」

「いいえ、ここは日本、天国じゃないですよ」

「え? 日本?」

「ええ、そうよ」

「もしかして、東京?」

「そうよ」

「おいらも東京に住んでた。伯爵様のお屋敷の隅に、大好きな馬と一緒に住んでただ」

屋上につくと、五月晴れの空の下、遠くに富士山が見えた。

「富士のお山だ!! あははは、富士のお山だ!!!」

ゴン太は喜んで飛び回った。マヤの手を取り、踊り回る。マヤは戸惑いながらも、真澄がこんなふうに喜びを素直に現してくれたら、きっと楽しいだろうと思った。

「おいら、富士のお山さえ見えたら、自分がどこにいるかわかるんです。伯爵様のお屋敷はこの近くです。というか、ここの筈です」

「え? ここは病院よ。伯爵邸なんてないわ」

「いいえ、あったのよ!」

水城の声があたりに響いた。





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