時計樹に飛び込んで    連載第3回 




 明治時代、真澄の入院した大学病院の敷地には北島伯爵の邸宅が立っていた。明治維新の功績により伯爵位を賜った北島伯爵は薩摩の出身だった。急速に欧米化を進める政府の意向を汲み取った北島伯爵は洋風の館を建てた。2階建ての瀟洒な建物。1階サロンから見える庭は回廊式庭園となっていた。さらに、洋館の西側には、武家屋敷の佇まいを残した旧北島邸の一部が、古来からの行事を行う為に残されている。敷地の奥には馬場があった。馬場の片隅にイチョウの樹が数本立っている。
この樹に北島真耶伯爵令嬢は登っていた。空は雲一つない五月晴れである。しかし、伯爵令嬢は五月晴れの陽気さとは裏腹に、イチョウの樹にしがみつき落ちる恐怖に泣いていた。

「う、ううう、だれ……か、だれか、、、、ひっく、たすけて……」

真耶伯爵令嬢は朝の散歩を日課としていた。今日も袴姿で散歩を楽しんでいると、イチョウの樹から鳴き声がする。猫だった。イチョウの樹の上で猫が降りられず泣いていた。真耶お嬢様は反射的に樹に登っていた。子供の頃、この樹に登った。両親から樹に登ってはいけないと言われていたが、誰かを呼んで来る前に猫は落ちそうだった。真耶お嬢様は登った。後先考えずに。猫は助けたが久しぶりに登った樹は思った以上に高かった。樹の高さに怖くなり、真耶お嬢様は降りられなくなっていた。

さて、病院の敷地にあったイチョウの樹を通して、生き霊となって過去にやってきた大都芸能、速水社長。いきなり、マヤそっくりな少女と対面して唖然としていた。
樹に取り込まれた真澄は樹の中から少女が降りられずに泣いているのを見て、なんとかしてやりたいと思った。樹の中からは全方位見渡せた。少女の立っている枝はかなり太い。樹の枝振りからいって登ってこれたのだから、ゆっくり降りれば降りられそうだが、少女は下を見て怖くなったようだ。真澄は少女に話しかけた。

(怖がるな!)

少女はびくっとした。

「誰?」

(誰でもいい。下を見るな。俺の言った通りにすれば、降りられる。)

「嫌、怖い!」

(下を見なければ怖くない。いいか、今、立っている枝の上にゆっくりしゃがむんだ。樹の幹から手を離すなよ。)

「猫を抱えているの。無理」

(猫を袖にいれろ。バランスが悪いかもしれんが、そこなら入る。ゆっくりしゃがめ。)

少女は言われた通りにした。猫を袖の中にいれ、ゆっくりと枝の上にしゃがむ。両手が自由になったので、少しほっとしたようだ。

(次にその枝にぶら下がれ。大丈夫だ、ゆっくりだぞ、ゆっくりやれば、右足が次の枝にひっかかる。次に……)

少女は言われた通りにそろそろと降りていった。最後の枝まで、後少しという所まで来た時だった。

「真耶お嬢様!」

真耶お嬢様付き執事の藤村だ。

「お嬢様、そのような所に登ってはいけません!」

イチョウの樹の中に閉じ込められている真澄は、執事の顔を見て驚いた。

――俺の若い頃にそっくりだ。一体、これはなんだ? 夢か? いや、夢にしてはリアルすぎる。ここはどこだ?

そう思いながらも真澄にはわかっていた。ここはイチョウの樹の中で、猛スピードで過去に遡ったのだと……。
ただ、いつ、どの時代かはわからなかった。

――この二人、俺とマヤの先祖かもしれんな。

執事に声をかけられて、真耶お嬢様は下を見た。地面まで後少しだった。急に気持ちに余裕が産まれた。真耶お嬢様は自分に話しかけて来た人は誰だったのだろうと姿を探したがいない。その時、真耶お嬢様の手が滑った。樹から落ちる。

「きゃあーーーーー!!」

慌てて執事の藤村が受け止めたが、軽いといっても人一人の重さである。加速度が加わり、下敷きになった藤村は一瞬、気を失った。途端に真澄は強い力を感じた。

――うわああーーー。

真澄は気を失った藤村の体に引きずり込まれていた。


執事の藤村三郎は真耶お嬢様にほとほと手を焼いていた。
御年16歳になった真耶伯爵令嬢は、幾つになってもお転婆娘だった。女学校での成績は普通だったが、もっとも得意としたのは剣道だった。
執事の藤村はそんなお嬢様の世話をする毎日を過していた。
この日は日曜日で真耶は朝からダンスのレッスンを受けなければならなかった。女学校でもダンスは一通り習っていたが、一ヶ月先の舞踏会の為に伯爵が特別に外国人の教師を招いていた。が、剣道はやっても音楽に合わせて体を動かし、見知らぬ男に手を取らせるダンスを真耶は嫌っていた。朝の散歩にかこつけて、洋服に着替えるのを渋っていた。


真澄は真耶お嬢様の大声で目を覚ました。

「いやあ!!! 死んでは嫌よ! 藤村! 藤村! 起きなさい」

実際に目を覚ましたのは藤村だった。藤村の体内で真澄もまた目覚めていた。目を覚ました藤村は大きく咳き込んだ。

「ごほっ、ごほっ、ごほっ」

「藤村!」

真耶お嬢様が、藤村の首に抱きついた。

「お、お嬢様……」

「ふじむらあああああーーー、あーん、あんあんあん」

お嬢様は泣いた。自分の下敷きになった藤村が息を吹き返した。安堵とショックで何も考えずに大声で泣いた。藤村は真耶お嬢様の背中を撫でた。真澄は、その時、藤村の真耶お嬢様に対する深い愛情を知った。

――こいつも真耶に惚れてるのか……。

「え!」

真澄は独り言を言ったつもりだった。
しかし、藤村の態度が変わった。真澄は藤村の様子から、こちらの声が聞こえているようだと判断。それからは不注意に声を出すのをやめた。魂だけになっても肉体の記憶は魂の上に色濃く残っていた。声を出すという動作をすれば宿り主の藤村に声が聞こえるようだった。
藤村の様子に真耶お嬢様が心配そうに覗き込む。真耶お嬢様が助けた猫も同じように藤村の顔を覗き込んでいる。

「なんだ、藤村?」

藤村は頭に手をやった。

「いたたた……」

「どうした、藤村? 大丈夫か?」

「お嬢様、どうやら頭を打ったようです。こぶが出来ております」

藤村が手を見ると、血がついていた。

「藤村!、怪我を! 怪我をしておるではないか!!! 誰か! 誰かおらぬか!」

真耶お嬢様は立ち上がると、大声で叫んだ。母屋から数人の女中が出て来ておろおろとする。

「お湯と手ぬぐいじゃ、早く用意をせんか! 藤村、大丈夫か、立てるか?」

藤村は辛そうに立ち上がった。少しふらついていたが、他に怪我はないようだった。藤村はポケットからハンカチ取り出し、後頭部に出来たこぶにあてた。

「さ、お嬢様、参りましょう。洋服に着替えなくては……。まもなく、ダンスの先生がいらっしゃいます。お嬢様がダンスを習って下さったら、私めの怪我もすぐに直ります。さ!」

「……藤村、すまなかった」

真耶はしゅんとなった。

「いいんですよ、私よりお嬢様にお怪我がなくてようございました」

「……、藤村、あたしは二度と樹には登らぬ。もし、おまえが死んだら、あたしは……」

真耶お嬢様の目から涙が溢れて、ぽたぽたと落ちた。藤村は持っていたハンカチを裏返すと血のついていない綺麗な方で真耶お嬢様の涙を拭った。

「お嬢様、ご安心下さい、藤村は簡単に死にません。ずっと、お嬢様をお守り致しますから……。お嬢様、その猫は?」

「これか? 樹の上で降りられずに泣いておったのじゃ。つい、可哀想になっての」

「それで、樹に登られたのですか? お嬢様は優しい方ですね。ですが、そういう時は人をお呼び下さい」

「でも、猫が落ちそうだったのだ」

「猫は意外と落ちません」

藤村は真耶お嬢様にニコッと笑いかけた。途端にお嬢様の顔に満面の笑顔が戻る。真澄はその笑顔に、マヤの子供の頃を思い出した。マヤもこんな笑顔をしていたと真澄は思った。
藤村は女中に真耶お嬢様の着替えを指示すると、自身は怪我の手当をしに台所へ向った。藤村が手当を終え伯爵邸のサロンに行くと、北島伯爵とその夫人がいた。二人共洋装である。

「藤村、真耶はまだかね、もうそろそろ、ダンス教師が着く頃だ」

「はい、お嬢様はただいま、洋装にお着替え中です。まもなく、参られるかと……」

夫人が藤村に声を掛ける。

「藤村、真耶の世話をよくやってくれていますね。今朝も怪我をしたとか、大丈夫ですか?」

「は、大丈夫でございます。奥様、ご心配をお掛けしまして恐縮でございます」

夫人は軽くうなづくと、言った。

「藤村、真耶に縁談が来ているのです。とても、良いお話で……、どうかあの子に何事もないよう頼みましたよ」

「はい、心得ております。……お嬢様にご縁談でございますか? それは、おめでとうございます」

真澄は藤村の心が強く動揺したのがわかった。

「お嬢様のお相手はどちらの果報者でいらっしゃいますか?」

「上杉鷹時様、上杉家のご長男で、先日、洋行からお戻りになったのです。これからの日本を背負って行かれる素晴らしい方なのですよ」

「お嬢様に取っても、北島家に取ってもこの上のないご縁談、おめでとうございます」

「それがね、藤村、喜んでばかりはいられないのですよ。何と言っても、真耶はあの通りのお転婆。先様に気に入っていただけるか不安で……。一月先の舞踏会がお見合いの席になるのです。でも、他のお嬢様方もいらっしゃるでしょう。普通にお見合いをと思ったのですが、上杉様は外交のお仕事をされているお方……」

夫人はため息をついた。

「いろいろと事情があって……、真耶を気に入って下さればいいのだけど……」

「奥様、真耶様はお転婆ではありますが、素直で曲がった事の嫌いな素晴らしい方です。きっと上杉様はお嬢様をお気に入りになられます。どうか、お気持ちをお楽になさってください」

藤村が言った矢先に、真耶お嬢様がサロンに飛びこんで来た。

「お父様、お母様、いかがです? このドレス、真耶はとても気に入りました」

北島伯爵は娘の様子に目を細めた。

「ははは、真耶はダンスが嫌いなのではなかったか? ドレスも嫌だと申していたではないか?」

「気持ちを変えたのです。どうせしなければならないのなら、好きになった方が楽ですから! それに、このドレス! 凄く可愛くて真耶は気に入りました。お母様、お母様のドレスも素敵ですね」

夫人は真耶の言葉にころころと笑った。
やがてダンス教師がやって来た。教師は、男女二人のアメリカ人だった。二人はさらに音楽隊を連れて来ていた。当時はまだ、蓄音機は無い。
ダンス教師が真耶に片言の日本語で挨拶をした。しかし、真耶は、英語で答えていた。

「オオ、コレハ素晴ラシイ! 英語、話セマスカ?」

「いいえ……、ご挨拶だけ練習しました」

真耶は澄ました顔で答えた。周りの者は一瞬あっけに取られたが、どっと笑い出していた。教師は真耶の正直な答えに好感を抱いた。二人のダンス教師は夫婦だった。二人は伯爵夫妻と真耶、執事の藤村にワルツを中心にカドリールやポルカ、ポロネーズを教えた。

藤村の体の中に閉じ込められた真澄は、北島伯爵夫妻、真耶やダンス教師達の様子を見ていた。

――お転婆なだけあって、ダンスの筋はいいようだ。執事の方も、筋はよさそうだが、女性の扱いになれていないらしい。女性教師に手を取られて赤くなっている。それに、かなり脈拍が早くなっているぞ。なるほど……。

真澄は、こうして藤村の体の中から周囲の出来事を観察した。結果、時代は明治だろうと推測した。

その夜、真澄は藤村が床に着くと、話しかけた。





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