トト    連載第2回 



 その夜、小犬は母犬を恋しがって泣いた。
仕方なく速水は、ベッドに小犬を入れてやった。小犬はひくひくと速水の匂いをかぎ、震えていたが……、やがて速水の温もりに安心したのか大人しくなった。
翌日、朝食の席に速水が小犬を連れて行くと英介が驚いた。

「どうした? その犬はなんだ?」

「昨日、誕生日のプレゼントに貰いました。引き取り手がなかったみたいで……。可愛いですよ。抱いてみますか?」

速水は英介の膝に小犬を乗せた。
小犬など抱いた事のなかった英介だったが、さすがに、自分の手をぺろぺろと舐める小犬に気を許したようだ。だが、そんな気持ちを顔に出す英介ではない。

「こんな犬、なんの役にも立つまい。無駄飯食いになるだけだ」

「……今、ロシア大使とバレエ団の日本公演を大都で行うかどうか交渉していますが、大使夫人は大の犬好き。多少は役に立つかと……」

「ふむ、なるほど……。使い道のある犬なら置いてやってもいいぞ。名前はなんというんだ?」

「トトです」

こうして、トトは英介にも気に入られ速水邸で暮らすようになった。
速水は仕事が忙しく自分で子犬の世話が出来なかったのでトトの世話は使用人にまかせた。さらに犬の訓練士を呼びトトの育て方の指導を使用人に受けさせる。速水はべたべたと子犬を可愛がらなかったが、犬にとっての最良の環境を専門家に整えさせた。それは、ある意味、紫のバラの人として北島マヤに接するやり方と同じだった。環境を整え後は放っておく。結局、速水真澄という男は何につけ、仕事と同じレベルで最良の方法を選択するのだ。ただ、仕事と違っていたのはそこに成果を求めなかった事だろう。トトに対し、例えば犬の品評会に出して賞を取らせそれで自分自身に箔をつけようとか、そういう野心はなかった。最愛の少女が、目的はどうであれ、自分の誕生日に贈ってくれた子犬を彼女の為に大切にしたかったのである。それが速水真澄の愛情表現だった。
 速水はトトの相手を普段してやれなかったが朝食はトトを傍らにおいて一緒に食べた。英介はそんな真澄を珍しいと思ったが、英介自身小犬を気にいっていたので朝食の席に小犬がいるのをとがめなかった。
真澄は休みの日にはよくトトの相手をした。速水がボールを投げてやるとトトは喜んで取りに行った。走って、飛んで、速水にじゃれついた。


北島マヤは、クリスマスが近くなった日曜日、草木広子に誘われて速水邸に子犬を見に行った。
マヤは行きたくなかったが、草木広子が子犬の様子が気になると言うので仕方なく付いて行く事になった。

「子犬が気になるのよ……。速水さん、見に来ていいって言ってたし……」

「あれは、社交辞令よ。ああいう台詞、すごーく、うまいんだから!」

「ふーん、あのさ、北島さん、聞いてもいい?」

「何?」

「どうして速水さんをそんなに毛嫌いするの?」

北島マヤは困った顔をした。だが、すぐにしゃべり始めた。「劇団つきかげ」を潰した事。母親を軟禁していた事。結局、それが元で母親が死んだ事。

「後で聞いたら、あいつ、あたしの出る芝居の初日に母さんが見つかった事にするつもりだったんだって!
 なんで、そんなタイミングにするつもりだったのかわかんないけどさ、とにかく陰謀が好きなのよ!
 あいつは……、あいつは、母さんの敵なんだから!」

マヤは怒りに拳を握りしめた。

「……だったら、いいよ! 北島さん、あたし、一人で行くから」

しかし、結局、3人で行く事になった。そして、門の外で呼び鈴を鳴らそうとしていると奥から速水の笑い声が聞こえた。格子の間から覗くと、速水と小犬が見えた。速水は白のアラン模様のセーター、ダークブラウンのコーデュロイジーンズ、焦げ茶のマフラーというラフなスタイル。枯れた芝生の上で速水が子犬にボールを投げているのが見えた。小犬は元気よく走り回っている。
草木広子は子犬を愛しそうに眺めた。

「へえー、あいつ、あんな顔するんだ」

マヤは速水の意外な表情にびっくりした。やはりマヤから母親の死について聞いていた吉沢ひろしが言った。

「子犬、トトだっけ元気そうだね。……僕、よくわからないけど、速水さん、そんなに悪い人には見えないけどな……」

「あたしだって、最初そう思った。初めて会った時は……、でも……」

「うーん、気持ちわかるけどさ、ほら、子犬に対してはちゃんとした人みたいだよ」

速水はボールをとってきたトトの頭をなで褒めている。長身の速水と小さな黒い子犬。なんとなく微笑ましい光景だった。
ぼんやりとその光景を眺めていた吉沢広子は、子犬が元気な様子にもう十分だと思った。

「……、二人共、付き合ってくれてありがとう。トト、元気に育ってるみたい。もう、見たからいいわ。さ、帰ろう! マヤちゃん、速水さんに会いたくないんでしょ」

「……うん」

3人は速水に会わずに帰った。
トトの元気な様子に草木広子は安心した。子犬が速水にじゃれている様子に一抹の淋しさを覚えたし、マヤの話にトトの飼い主として速水に不安を持ったが、トトが幸せそうなので草木広子は十分満足して速水邸を後にした。
一方、マヤは決して他所では見た事のない速水の表情を見て心がざわついた。

(あいつがあんな笑顔をするなんて……。
 とにかく、あいつは母さんの敵なんだから……)

黙っているマヤに、吉沢ひろしが話しかけた。

「あのさ、僕、よくわからないけど、人一人、スターにするのってさ、すっごく大変なんじゃないかな?
 そりゃあ、だからと言って何をしてもいいってわけじゃないけどさ。
 でも、北島さんが大河ドラマに出てたの、僕も見た事あるけどさ、良かったよ。
 同い年の女の子が凄いなあって思った。
 お母さん、亡くなって大変だったと思うけどさ、速水さん、北島さんをスターにするのに必死だったんじゃないかな?
 だって、ほら、芝居の初日とお母さんの見つかるのが一緒だったらさ、
 話題になって北島さん見に来る人、増えたんじゃないかな?」

「吉沢君は速水さんの味方なの?」

マヤはカッとして怒鳴った。マヤの剣幕に恐れをなした吉沢ひろしは思わず口ごもった。

「いや、そういうわけじゃないけどさ」

「あいつは! あいつは、あたしの為にあたしをスターにしようとしたんじゃない!
 あたしを売って儲けたかったの!
 お金よ! お金がほしかったのよ!」

マヤは涙があふれた。

――その為にかあさんは死んだんだ。お金の為に……

マヤはそう思いながらも、だったら何故、演技が出来なくなって、売れなくなったあたしをいつまでも手元に置いておいたのだろうと心の隅で思った。だが、そんな疑問は爆発した怒りの感情にあっさりと流されてしまった。

「あたし、次の一人芝居、家族の話にしたい。現実にはあたしの家族は誰もいないけど、でも……。
 舞台の上では家族に囲まれて過したい。虹の中で家族に囲まれたい……」

マヤがすすり泣き始めた。

「ご、ごめんよ。北島さん、ごめん、ね、泣かないで……」

吉沢ひろしと草木広子は、交互にマヤを慰めた。
その後、マヤはこの時言ったように次の一人芝居の演目は家族を描いた作品を選んだ。
「通り雨」という作品は、父親の浮気を知ってしまった女子高校生が主人公の作品だった。


 1年程たった或る夜、速水邸で事件が起こった。





続く     web拍手 by FC2       感想・メッセージを管理人に送る


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