トト    連載第4回 



 鷹宮紫織は、真澄が自宅にいない時も、蘭の花を届けに速水邸を訪れた。真澄と婚約した後はよけい、若奥様であるかのように大胆に振る舞った。
梅雨の季節が雷によって終わりを告げた或る日、鷹宮紫織はやはり蘭の花を携えて速水邸にやってきた。
梅の谷から戻った英介が紫織の相手をする。紫織は応接室で英介と話をしながらふと窓の外を見た。するとトトがこちらを見ているのが見えた。トトは初めて紫織に会った時は紫織を威嚇したが、今は遠巻きに紫織をじっと見ている。紫織はまるでトトに見張られているような不快さを覚えた。さらに、紫織は真澄を落とす絶好の機会を潰したトトに憎悪を覚えた。ふと、紫織は何故この家には番犬がいないのだろうと思った。そしたらあんな小型犬が我が物顔で家の中をうろうろする事もないだろうにと……。
紫織は気になって英介に理由を聞いた。

「こちらでは、昔、番犬を飼っていたとか。何故、飼わなくなったのですか?」

英介は苦笑いをしながら答えた。

「犬は役に立たんです。昔、屋敷に放火された事が有ったのですが、犯人に手懐けられていましてな、全く吠えなかったのです。おかげで、儂の『紅天女』のコレクションが燃えてしまい……」

英介の顔に憤怒の表情が浮かぶ。紫織はその表情に背筋が凍るような恐ろしさを覚えた。

「真澄の母親が捨て身で火の中に飛び込んだおかげで小袖だけは助かりましたが……。それで、処分しました」

「え? あの、犬を……ですか?」

「はは、若いご婦人には、残酷に聞こえましたかな。儂は仕事をまともに出来ない者は犬でも人でも容赦しません。その点、トトは小さいくせに番犬としても役に立つ奴でしてな。一度は泥棒に噛み付いたりしましてな!」

英介は自慢げにトトが泥棒を捕まえた話をした。

「あれがうなった後に防犯システムが鳴ったりしましてね……。夜、真澄が仕事の邪魔だからと部屋から追い出しても、真澄の部屋の前から動きません。小さいくせに真澄を守っているつもりなのでしょう」

「まあ、随分、賢い犬ですのね。今度、私から餌をやっても宜しいでしょうか? 真澄様をお守りしている犬ならぜひ、ご褒美を上げたいですわ」

「もちろんですよ」

英介は若く美しい鷹宮翁の孫娘にすっかり気を緩めていた。



鷹宮紫織はトトが全く気に入らなかった。北島マヤから贈られたというだけでも絞め殺してやりたい程、トトを憎んだ。そう、鷹宮紫織は真澄が北島マヤを愛していると気が付いたのだ。真澄の別荘でマヤのアルバムと卒業証書を見つけ、真澄がマヤの「紫のバラの人」だと確信するといっそうマヤを、トトを憎んだ。まず、犬からだと紫織は思った。それから、北島マヤを滅茶苦茶にしてやると……。そして、紫織はある計略を思いついた。紫織は何食わぬ顔をして速水邸を訪れた。紫織は食堂の隅においてあるトトの餌入れに睡眠薬入りの水をこっそり入れた。鷹宮紫織の為に処方された無味無臭の睡眠薬。夏の暑い日、トトが水を飲んでいるのを紫織は何度も見ていた。そして、トトと仲良くなりたいからと朝倉にトトを連れて来させるとそれを飲ませた。やがて薬が聞いて眠ってしまったトトを抱き上げると、英介の「紅天女」のコレクションが置いてある部屋にトトを放り込んだ。トトはそこに入れないよう躾けられていると速水から聞いていた紫織は、トトがその中に入れば、英介によって処分されるだろうと思ったのだ。後は、トトが薬から覚め部屋の中で暴れ、コレクションを台無しにするのを待つばかりである。紫織はほくそ笑みながら、速水邸を後にした。




 一方、北島マヤは試演に向けて稽古に励んでいた。
そこに珍しい客がマヤを訪ねて来た。高校卒業以来、音信不通だった草木広子と吉沢ひろしである。
二人共同じ大学の文学部。草木広子はジャーナリストを、吉沢ひろしは作家志望だった。
大々的に宣伝されている「紅天女」の試演を前に、二人はマヤを励まそうと稽古場にやってきたのだ。

「草木さん! 吉沢君! 久しぶり!」

マヤが歓声を上げた。

「北島さん!」

草木と吉沢は異口同音に叫んだ。ひとしきり挨拶が終わると、二人は土産を差し出した。

「これ、みなさんで召し上がって!」

「きゃあ、ありがとう! ねえ、稽古見て行って!」

マヤは二人を引き留めた。マヤは街の公園で阿古夜の演技を掴んで来た所だった。まだまだ掴みきれてない箇所はたくさんあったが、それでも、二人に自分の演技を見てもらい感想を聞きたかった。
草木と吉沢はマヤの言葉に甘えて見学させて貰う事にした。真近で見る役者達の演技は迫力があり、吉沢は感銘を受けた。吉沢は、将来きっと脚本も書くぞと決意を新たにしていた。
マヤの演技を見た二人は率直に、マヤの演技を凄いと評価した。

「今、やってた所、あれ、女神様?」

「うん、そうなの、出だしの所で、紅天女の最初の出の所なの」

「すっごい迫力だったよ。北島さん! 見てて怖かった」

「本当! 良かったー」

「これなら、きっと、試演に勝てるよ!」

「ありがとう、でも、亜弓さん、もう一人の候補の姫川亜弓さんは凄い人なの。それに、試演は一般投票があるから……」

「それって組織票をまとめればいいんでしょ。だったら、まかせて! 私、高校の時の同級生に声かけてみんなで試演見に行って、北島さんに投票するように言うわ」

「僕も協力するよ」

「草木さん! 吉沢君!」

マヤは友人達のエールに胸が熱くなった。結局3人は一緒に帰る事になった。

「ねえねえ、そういえば速水さんに上げたトト、元気にしてるかな?」

「さあ?」

マヤは一番触れられたくない話題が出てとまどった。
マヤは様々な恩讐を越え、速水に恋をしている自分を自覚していた。その想いは速水が「紫のバラの人」だとわかった事でさらに加速された。しかし、速水に打ち明けようと思った時にはすでに、速水は鷹宮紫織と婚約していたのである。マヤは婚約者のいる男に恋をしてはいけないと思い、自分の想いを心の底深く閉じ込めた。
しかし、草木広子はそんなマヤに気が付かない。

「ねえ、今から3人で見に行かない? あ、ごめん! 北島さん、速水さんを嫌ってたよね」

「ううん、もう、憎んでないの。大丈夫よ、草木さん」

「へえー、速水さんを許してあげたんだね。良かったよ」

吉沢ひろしが嬉しそうな顔をした。

「……許すとか許さないとかじゃなくって、その、誤解してたの。吉沢君が昔言ってたように、速水さんはあたしでお金儲けしようとしたんじゃなくて、本当にスターにしたかったんだって、この頃やっと分かったの」

「そっか、良かったよ。人を憎む気持ちってさ、体によくないからね」

「だったら、また、速水さんちの門から覗いて見る? トトが見られるかもしれない」

マヤは行きたくなかった。もし、速水と顔を合わせたら、馬鹿な事を口走ってしまいそうだった。それでいて、遠くからでもいい、一目会いたいとマヤは思った。結局、3人は連れ立って速水邸を訪ねた。

夏の日は長い。なかなか夜にはならない。
マヤ達が速水邸に着いた時、すでに6時を回っていたが、辺りは明るかった。

「まるで昔に戻ったみたい」

草木広子が言う。3人は顔を見合わせて笑った。
門の陰から覗くと、さすがに人の気配がない。ただ、夕食の支度をしているのか料理の良い香りが風にのって運ばれて来た。

「やっぱり、今は庭に出ていないみたいね。残念、さ、帰ろうか」

「犬を見るだけなら、呼び鈴鳴らしてみる? 執事さんかお手伝いさんが見せてくれるかもしれない」

3人がどうしようと話し合っていると、1台の黒塗りの車が門の前に止った。車の窓ガラスが静かに降りる。

「君たち、こんな所で何をやっている?」

速水真澄が帰ってきた所だった。





続く     web拍手 by FC2       感想・メッセージを管理人に送る


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