トト 連載第7回
速水はマヤをアパートまで送り届けた。
「速水さん、送っていただいてありがとうございました。あの、あたし、試演できっといい演技をします。期待してて下さい」
「ああ、期待してるとも……、また、トトを見たくなったら来るがいい」
「あの、速水さん、もうお邪魔しません。だって、速水さん、もうすぐ結婚するでしょう」
「俺が結婚したからといって、君が訪ねて来て悪いと言う事はあるまい」
「あの、でも……、そうですね……、またお伺いさせていただきます」
マヤはペコリと頭を下げた。速水はマヤに「ではまた」といつもの挨拶を言うと帰って行った。
マヤは見送りながら思った。
――いいえ、速水さん、あたしが……、あたしが辛いんです。
あなたと紫織さんが幸せそうに寄り添っているのを見るのは……
マヤは車が見えなくなるまで見送っていたが、ため息を一つついて、気持ちを切り替えた。
支度をして稽古場に向った。
その日の夕方、マヤの稽古場に荷物が届いた。「紫のバラの人」からマヤに宛てた荷物だった。
荷物の中にはマヤの卒業証書とアルバムがびりびりに引き裂かれて入っていた。
メッセージカードには、
これが最後のバラです
あなたの演技に失望しました
もう2度とあなたの演技を観ることはないでしょう
とだけ書いてあった。
マヤは信じられなかった。速水が、昨夜あんなに楽しく話した速水がこんな事をするわけがない。
それでもマヤは、泣き出していた。
一方、速水はレストラン「グラナダ」で鷹宮紫織と食事をしていた。
鷹宮紫織は、トトがどうなったか聞きたかった。
「トトちゃんは見つかりましたか?」
「ええ、義父のコレクション部屋にいました。あの部屋には入らないようにしつけてあったんですが、恐らく暑さにやられたのでしょう。あの部屋は空調が効いてますからね」
「それで、あの、コレクションは?」
「え? コレクションですか?」
速水は怪訝そうに鷹宮紫織に聞いた。
「あの、トトちゃんがコレクション部屋にいたのでしょう? だったらコレクションにいたずらしたのではないかと思って……」
速水はようやく、鷹宮紫織の目的がわかった。
――なるほど、自分になつかないトトを処分させる為か。
確かに、もし、トトが気が付いていたら、びっくりしてあばれただろう。
すると親父のコレクションに傷がつく。
親父は容赦しないだろう、あの時と同じように……
放火のあった日、犬を処分した義父を速水は思い出していた。
こん棒で犬を殴り殺した義父。
犬は悲鳴を上げつづけ、最後に一声鳴いて静かになった。そして、二度と動かなかった。あの時の義父ほど恐ろしかった事はなかった。
速水は鷹宮紫織の残酷さを思った。
――どこかで聞いたのだろう、放火のあった日、義父が犬を処分した話を……。
それで、なつかないトトに薬を飲ませ、コレクション部屋に放り込んだのか。
真澄は急に鷹宮紫織に対して強烈な嫌悪感を覚えた。
鷹宮紫織が醜い女なら、これほどの衝撃を覚えなかっただろう。しかし、見掛けが美しく優しい女だっただけに、そのギャップが凄まじかった。だが、速水は誤解していた。鷹宮紫織は英介から「犬を処分した」としか聞いていなかったのだ。それは決して殴り殺す事ではなかった。
しかし、一度、相手に嫌悪感を覚えたら人の感情は転がり落ちていくばかりだ。
その夜、鷹宮紫織を送って帰った後、自宅でメールをチェックした速水は聖からの信じられないメールを読む事になった。
真澄様
マヤ様の元にびりびりに引き裂かれた卒業証書とアルバムが紫のバラの人の名で送られていました。
お心あたりはございますか?
ご本人様は気にしてないご様子でしたが……。
H
そのメールを読んだ速水はすぐに行動を起していた。夜中、車を駆って一人伊豆の別荘に向う。戸棚を調べてもどこを探しても卒業証書とアルバムは出て来なかった。伊豆にやって来た只一人の例外、鷹宮紫織。
――何故だ。
何故、俺が愛する者をことごとく遠ざけようとする。
俺がトトを可愛がっているのは知っていた筈だ。
それに、マヤ。
彼女は俺を憎んでいたんだぞ、……許してくれたが。
俺が彼女を愛しているからか……?
だったら、何故、俺にぶつけない。
速水は翌朝、伊豆から帰る車の中で婚約を解消しようと決心していた。
速水は鷹宮紫織を自邸に招待した。
鷹宮紫織様
月の美しい季節になりました。
我が家で月見の宴をあなたの為に催したいと思います。
明日夜7時に待っています。
速水真澄
紫織にとっては、しょっちゅう行っている速水邸だが、速水が直々に招待してくれたのが嬉しかった。
その夜、紫織は月の宴に合わせた着物をまとった。淡いイエローカラーの地に秋の草花が染め上げられた加賀友禅。月の模様の帯を締める。結い上げた髪には銀の簪。
速水邸では人々が集まっていた。紫織にとっては初めて会う人達ばかりだ。
音楽が流れ、庭に縁台が置いてあり、酒肴が用意されていた。
鷹宮紫織は飲めなかったが、速水に勧められて日本酒を杯に一杯だけ飲んだ。
酔いが回った。そして、美しい月を見ながら意識を失った。
鷹宮紫織は強く揺さぶられて目を覚ました。
続く
Back Index Next